白いぼうし

4年生の国語の題材「白いぼうし」。
いつの時代も子どもの心を惹き付ける名作。

担任にしてみると、
何度か扱ったことのある題材であるが、
子どもの人生において、それを
かけがえのない出会いとなるようにしなければならない。
無論、
担任にそのような力量があるとは到底思えないが、
できる範囲で、
それに少しでも近づけるようにと思う。

今日は、その最終となる話し合い。
山場はやはり、
あの女の子は一体だれだったのか、というところ。
突然、松井さんのタクシーの後ろの座席に現れ、
二言三言、たどたどしい会話を交わしたかと思うと、
いつの間にか、姿を消してしまう女の子なのだ。

この、おそらく数秒から1分程度と思われる間のできごとに、
4の1のみんなは、休み時間を飛び越えて
約60分間も熱く語り合った。

この間、
女の子の正体はモンシロチョウかどうか議論、
菜の花横町は実在する町かどうか議論、
「よかったね、よかったよ」の声の主は誰なのか議論などが、
あちこちでわき上がった。
これらは、実は、
往年の優れた実践事例の中にでてくるものでもあり、
4の1のみんなの読みの鋭さと豊かな感性に
授業をしながらしびれる思いでいた。

さらに、
「女の子が『四角い建物』と言っているのは空から見ている証拠だ」とか、
「『あ、あの、菜の花横町って。。。』と言うのは口からとっさに出ただけだ」とか、
「『通りの向こう側』から、仲間のモンシロチョウたちが一部始終を見ていた」とか、
実に細部にわたる微妙な叙述に見事に立ち止まり、
自分の考えを創り上げようとしているところにも、
お話の世界を楽しむ素地が育っていることを感じさせられた。
幼い頃からそういう環境を大切になさってこられた
ご家族の教育力を目の当たりにしたような気もした。

最後には、
女の子はマーメイドと一緒説
(人間の世界にあこがれて、一度は自ら菜の花畑を飛び出したものの、
 やはり、異国で暮らすのは大変だった。それでも、松井さんという
 素敵な出会いを得て、故郷のお花畑に戻る。。。という説)
女の子はタイムトラベル説
(女の子は、まだ自然がたくさん残る時代から、突然、近代化が進んだ
 現代にタイムスリップし、道に迷ってしまった。おまけに、
 たけのたけおくんにつかまってしまう。そんな時、松井さんに助けて
 もらう。菜の花横町は昔の町名で、現在は菜の花橋となっている。。。という説)
などが飛び出した。

そう思って「白いぼうし」を読み直してみると、
何度か扱ってきた題材にもかかわらず、
また、別の楽しみ方があることに気付かされるのである。
いったい、どちらが先生なんだか。
 
 …
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脱皮

カマキリの脱皮が始まったのは、
算数の時間がはじまろうとしていた休み時間中のことだった。

虫かごの天井からぶらさがるようにつながっていた体から、
もうひとつ、
乳白色の体が抜け出そうとしていた。
少しずつ体をゆらし、
半分ほど抜けてきていた。

そこで算数の時間となる。
とりあえず、虫かごを教室の中に運びこむ。
そこで考える。
予定通り算数の授業を始めるか、
このまま脱皮の瞬間を眺めるか。

考えながら、
ビデオとカメラとテレビとをセットする。
その間も、
カマキリの脱皮は少しずつ進む。

あ、動いたよ。
もう少しで完全に抜けるよ。
これが草むらの中で起こっているとしたら、
カマキリにとってはキケンがいっぱいなのだろうな。
いや、草むらの方が安全なのかもしれないよ。
がんばれ、がんばれ。
そんな会話が聞こえてくる。

依然、テレビには、
新たな体が離脱していく神秘の光景が映し出されていた。
当然、担任の頭には、
どこで算数の時間を始めようかな、という計算があった。

こんなとき、
つい先日の講演の内容が頭をよぎる。
「脱線」か。

この脱皮も、脱線のうちにはいるのだろうか。

そう思っている最中も、
カマキリの必死の脱皮が続いていた。
担任の迷いも平行して続いていた。

みんなで見つめたあの神秘の世界が、
単なる脱線となるか、
意味ある脱線となるか、
その答えは、やがて、
子どもたちが教えてくれることだろう。…
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本当の親切

先週、
道徳で「親切」の徳目を扱った。

家族のおばあちゃんは体が不自由で、
そんなおばあちゃんには
ふたを開けてあげたり、
できないことを手伝ってあげたりできる自分。

ところが、
街で見かけた目の不自由な方に、
声をかけるべきかどうか迷ってしまった。。。

そんな題材に、
みんなが真剣に向き合った。

中心発問は、
「なぜ、ためらったのか、
 うちのおばあちゃんならできるのに」とした。

子どもたちの道徳的価値観は
みるみるうちに高まっていった。
それが手に取るように、
ひしひしと伝わる。
4の1の集団のもつ力だ。

子どもたちの意見はこうだった。

知らない人だから
「やめて」と言われるかもしれないから
回りの人に変に思われるかもしれないから
その人の大変さがわからなかったから
勇気がでなかったから
緊張していたから
何をしてよいかわからなかったから

こんな様相が、次の発言から
より高みへと向かい始める。

「本当は何かしたい!という気持ちだったと思う。」

そうだね、でも、それが迷惑になるってこともあるよね。
それくらいできるって思われるかもしれない。
自分は親切だと思ってしても、それが余計なお世話になるかも。
本当の親切って、わからなくなってきた。
手を引いてあげるのも親切?、何もしないのも親切?

ここまでくると、授業者自身も本気で考え込んでしまう。

でも、やっぱり真心がこもっていれば、それば親切だと思う。
まず、相手の気持ちを聞いてみたらいいと思う。「手伝いましょうか」って。
相手が困っていることを想像してみてもいいかもしれない。
みんなが幸せになれるのが親切だと思う。

それぞれに、
なんとか自分なりの「親切観」を創り上げようとしているのがわかった。
そのとき、こんな発言も。

そういうこと、たしか空手の先生も言っていたよ。
えっと何だったかなあ。
「情けは人のためならず」
そうそう。

ねえ、それどういう意味?
「親切をしたら、その人のためにはならない」ってこと?
いや、
「親切は、その人のためでなく、自分のため」ってこと。

本当の親切とは?
をめぐって、
子どもたちの道徳的価値観は
みるみるうちに高まっていった。
それが手に取るように、
ひしひしと伝わる。
これは、4の1の集団のもつ力だと思う。
決して一人ではたどりつけない空気が
授業という空間では成立することがあるのである。

これは、学者さん方には
永遠に理解できないことの一つだろうと思う。

さて、本当の親切。。。か。。。

自分だったら、
どう考え、
どう判断して
どう行動できるだろうか。

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友情のボールは必要か

友情のボールは必要か

これがこの日の学級会の話題になった。

ことの発端は、
近頃、クラスにある2つの緑ボールと黄色ボールの
取り合いが生じていることにあった。

これまでは、
なんとなく男子用、女子用とわかれていたり、
なんとなくドッチ用、野球用とわかれていたりして、
暗黙の了解が得られていた。

それが最近、
ドッチと野球の両方にボールが使われて、
一部の子たちが使えないというようないさかいが
いくつか発生していた。

事情はなかなか複雑だった。
ドッチにも野球にも男女が交じって参加していることもあり、
「ドッチには女子用のを使っているつもり」
「野球には男子用のを使っているつもり」
「だったら、女子だけでドッチをしたいときは、
 どのボールを使ったらいいの?」
などその境界線が曖昧になっていたのだ。
どちらの言い分にも、それなりの理由があった。

そこで、ついに話し合いとなったのである。

はじめは、ことの事実をあきらかにしていく。
もちろん、双方の考え方が比較できるようにしていく。
すると、どちらにも言い分があって合意点が見つからなくなる。
そういうことは、クラスではよくある。

ここで
「だったら、もう一つボールを買ってけんかをなくせばいい」
「友情のボール、ということだね」
という案が提案された。
なんとかしたいという願いが生んだ折衷案、解決案だった。

確かに、もう一つボールがあれば、
みんなが円満に解決できる。
けんかを避けたいという思いが、その案には込められていた。

ここからが、4の1のすごいところである。

「でも、友情のボールはいらないと思います」
「きっと、そのボールの取り合いがまた始まると思います」
「みんなで解決することの方が大事だと思います」
「ゆずりあえばすむことがあるかもしれません」

ボールの取り合いやけんかはしたくない、という4の1。
だけど、よけいな「友情のボール」は必要ない、という4の1。

とてもすてきな仲間たちが共に生活する4の1だと思う。

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ケルルンクック

ケルルンクック
ケルルンクック
で有名な草野心平さんの詩「春の歌」

ほっ まぶしいな
ほっ うれしいな

などというリズミカルで軽快なことばには、
春の訪れを謳歌する姿が
生き生きと描かれている。

子どもたちも、
これらのことばに触れて、
「やっと春がきたからうれしいんだ」
「広い世界に出てきて伸び伸びしている」
「あたたかいなあ〜といい気分になっている」
などと読みを進めた。

「ケルルンクック」というカエルの言葉を訳したら
いったいどんな言葉になるのだろう?
そんな担任の問いかけに、
「温かい水だな」
「いいにおいの風だな」
「一年前を思い出したよ」
「なつかしいな」
などという意見が相次いだ。

子どもたちの読みは、ほぼ出来上がった。

ここで、
草野心平さんのもう一つの詩「秋の夜の会話」を提示した。
その中には、次のような言葉が出てくる。

「虫がないてるね。 ああ虫がないてるね。」
「もうすぐ土の中だね。 土の中はいやだね。」
「痩せたね。 君もずいぶん痩せたね。」
「どこがこんなに切ないんだろうね。 腹だろうかね。」 
「腹とったら死ぬだろうね。 死にたかあないね。」
「さむいね。 ああ虫がないてるね。」

先ほどまでの、楽しげな明るい詩と一変して、
子どもたちは、カエルたちの越冬のつらさを目の当たりにする。

「先生、こわい。。。」
「なんだか、切ないね。。。」
「さっきの詩が明るかったのに、この詩は急に暗くなったよ」
「死にたくない!」
「おなかがすいた!」
「また生きて会いたいね、と言い合っている」
「土の中はいやだ!だからと言って、
 このまま土の中に入らないと雪で死んでしまう。
 まるで最終決断を迫られているみたい」

その時、再び、子どもたちは「春の歌」に戻ってきた。

「ほっ というのは、生きていてよかったの ほっ だと思う」
「風はつるつる というのは、生きている風 という意味だ」
「一年、一年、大事に生きようと思っている」
「二人で、また会えたね、と確かめ合っている」

ケルルンクック
ケルルンクック
で有名な草野心平さんの詩「春の歌」
ほっ まぶしいな
ほっ うれしいな
などというリズミカルで軽快なことばには、
春の訪れを謳歌する姿が
生き生きと描かれている。
こうした「春」をまちわびる気持ちが生まれるのは、
それだけ、寒い冬に暗い土の中で耐えたからこそであろう。
きっと、私たちもそうだろう。

子どもたちの思考は、
この二つめの詩によって、再び活性化し、
読みをさらに深めていった。

実は、
この国語の授業の発想は、
本校の前研究主任が実践したものである。
そのときの鮮烈な印象が忘れられず、
4年生を担任した今年、
その通りにとまではいかないまでも、
子どもたちと取り組んでみようと思ったのである。
二つめの詩に触れてから、
再び最初の詩に戻って読みを深めていく子どもたちの姿に
素直に感動した。…
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