サプライズ

今日は、
中学年ドッチボール大会での
あるサプライズに感動した。
年がいもなくうるっときた。
いろいろあるが、やっぱり4の1の一員でよかったと思った。

それは、
ドッチボール大会で4の1が見事優勝した、
というような、そんなことではない。

話せば、ちょっと長くなる。
過去のいろんな場面が伏線としてつながってくるから長くなる。

ドッチボール大会の選手は男女各7名と決まっていた。
4の1では、それを越える希望者が立候補した。
7選手は、みんなの投票で民主的に決まった。
だからといってそれでいいというわけでないのが、
教育の現場である。
投票で惜しくも補欠に回った子たちがいた。
控えの席にさえつけなかった子たちもいた。
しかし、大会期間の2日間とも、
選手たちと同様に給食を早めに食べ、
体操服に着替え、
心の準備をして出場に備えていた。
こういうところに、
微妙な空気がさしこんでくるのを
担任なら誰でも経験上知っている。
知っていながら、
あからさまな手だてを打てないということも痛感している。
できることは、
できるだけみんなのそばにいて、
小さな心の動きをひとつひとつ納めていくことぐらいである。

いよいよ大会が始まった。
選手たちの活躍ぶりは見事だった。
コートでは随所にスーパープレーが生まれた。
そのたびに、応援席は歓声にわいた。
応援席の盛り上がりは、
コートの選手たちと一体となっていた。
担任の注意は、
そんな応援席のスーパープレーに惹き付けられていった。

そうして、4の1の優勝で、大会2日間の日程を終えた。

帰りの会、担任は、
まず応援席でのスーパープレーを紹介し、
次にコートでのスーパープレーを紹介しようと考えていた。
ところが、である。
「係からのお知らせ」のときにサプライズが起こった。

係の子たちが、
「今日のドッチボール大会で、
 私たち4の1のためにがんばって、
 そして優勝してくれた選手のみなさんに
 プレゼントがあります。
 前に出てきてください。」
と言い出したのだ。
選手たちは、黒板の前に横2列に整列するようにうながされ、
係の子たちは、一人一人にカプセルプレゼントを渡した。

このサプライズに、
担任の危険予知は、見事にはずれたのを自覚した。

そして、選手たちがこう語った。
「優勝できてうれしいです」
「みんなの応援があったから優勝できました」
「ボールを受けるたびにわーっというみんなの声が聞こえてうれしかったです」
「昼休みの時間なのに駆けつけてくれてみんなありがとう」

普通なら子どもたちに当然あるだろうと思われた微妙な空気。
そう心配していた担任を見事に裏切ってくれた4の1のみんな。
おそらくは、
心の奥ではそういうものもわずかにあった可能性もないわけではないが、
仮にそうだとしても、
4の1のみんなの心は、
担任の知らないところで、担任の予想以上に、着実に成長を遂げていた。

それが、今日のサプライズ。… 続きを読む...

fzk48

今、中フロアーの鉄棒周辺が熱い。
体操選手顔負けの見事な技の競演が
そこで繰り広げられているのである。

その主な選手たちの顔ぶれは、
実は4の1の女子たち。

足をひっかけてひょいと体を起こしたり、
体を大きく揺さぶってくるっと回ったり、 
何度も何度も連続で回転し続けたりと、
その歯切れの良い運動には
思わず足を止めてしまう。

これは、体育の授業でもなければ
スポーツクラブの練習でもない。
ただただ、純粋な「遊び」の場なのである。
にもかかわらず、
そこで身につけている技の高さや精度は
かなりのものがある。

すごいのは、
そこに特別な指導者がいるわけではない、ということである。
互いに、こつを教え合い、
互いに、「もう少し」「がんばれ」「上手だね」と声を掛け合い、
互いに、サポートしあっているのである。

さらにすごいのは、
それが毎回10分程度の休み時間中の練習、ということである。
何時間もぶっつづけで練習できる時間が保証されていたわけではなく、
しかも、順番のきまりを守って友達と交代しながら、
そういうことをこつこつと積み上げてきた結果なのである。

思えば、
私たち「親」の世代にもそういうことは確かにあった。
「剣玉」や「ヨーヨー」に夢中になってその技を高め合ったあの日。
魚とりや昆虫採集に夢中になったあの日。
毎日のように2〜3本の鉛筆をナイフで削って筆箱にしまっていたあの日。
そこには、べつに、
勉強とか、練習などといった意識はなかったはずだ。

そう考えているうちに
ふと現代に意識が戻ってくる。
すると、目の前には、
あの体操選手顔負けの見事な技の競演が
繰り広げられている。
その主な選手たちである4の1の女子たち。
名付けてfzk48。
わたしは勝手にそう呼んでいる。

よく似たネーミングのタレントが活躍中だが、
そもそもタレントとは、「才能」という意味。
新たな才能がfzkから発掘されている
まさにその現場のひとつが、
中フロアーの鉄棒周辺かもしれない。…
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社会科特別授業

今、社会科では
「富山市と神通川」との歴史的なつながりを学習している。

先日、
課題となっていた「新聞」が集まってきたが、
その内容の充実ぶりには驚いた。
一人一人の取り組みの濃さがすぐにわかる力作だった。
とても数十分では仕上がりそうにないことくらい
誰が見てもわかるような情報量と構造的なまとめ方が光っていた。
実際に富山城を見学したり、
郷土博物館の展示から学んできたり、
常夜灯を訪ねて歩いたり、
多くの情報を集めてまとめたりしていたのである。

しかし、それが学習の終わりではなかった。
それが、今日の学習のプロローグでもあったのだ。

今日の学習は、
郷土博物館の館長先生をお招きして行われた
いわば、特別授業だった。
社会科担当の先生が、
みんなの学習のためにと
最高の場と機会をセッティングしてくれていたのだ。
富山城と神通川との関係については
おそらく最も詳しい方のお一人であろう。
直接お話を聞くことができる貴重な機会である。
貴重な資料もいくつも見せていただいた。

あっという間に過ぎた1時間だった。
子どもたちの興味の芽は、
さらに今日、ぐん、と伸びた。

しかし、それが学習の終わりではない。
それが、明日からの学習のプロローグでもある。…
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ハリガネムシ

今回もカマキリの話題で恐縮だが、
今日は、この話題が中学年フロアーで
じわじわと広がっていった
そんな一日だったと言ってもよいくらいだ。

それは、朝に始まった。
「先生、ハリガネムシが出てきたよ」と子。
「ハリガネムシ?」
どこかで聞いたような、いつか図鑑で見たような。
でも、どんなのだっけ?思い出せない。
とにかく一緒について行ってみる。

そこには、なんと、
カマキリのおなかから出てきたばかりの
長いなが〜いハリガネムシがいた。

「カマキリのおなかのあたりが何かへんだったから
 おなかを指で押してみたらね、
 ハリガネムシが出てきたんだよ」とその子。

まだ体から出てきたばかりで
くねくねと不思議に動き回っている。
弱ってはいけない、と思ったのか、
その子は、
ハリガネムシにずっとスプレーの水をかけてやっている。
ようやくミニ水槽におちついたころには、
”事件”を聞きつけた数名の子どもたちが
もの珍しそうに集まってきていた。
そこには、
「うわ〜、これ、なんていう生き物なの?」
と得体の知れない生き物に目を奪われている子たちがいた。

「これ、どこにいたの?
 え?カマキリの体の中に?うそ〜」
と驚きを隠しきれない子たちもいた。

「あ、ハリガネムシだ。
 これは他の動物の体に寄生してるんだよ」
とその正体を見事に言い当て解説してくれる子たちもいた。

「。。。。。。」
と急に無口になって
ひたすら、その不思議な動きを
飽きる事なくみている子たちもいた。

こんな実に様々な反応は、
その後、
じわじわといろんなところに広がっていった。

休み時間になると、
「なになに?ハリガネムシがいるって、ほんと?」
「あ、ほんとだ。ハリガネみたいだ。」
と子どもたちが入れ替わり立ち寄って行ったし、
少し離れた場所からでも、
「ねえ、もう見た?ハリガネムシっていうの。」
「うん、見たけど、あれって生き物?」
という声が聞こえてきたし、
隣のクラスからも、
「このムシ、カマキリの体の中から出てきたらしいよ」
「じゃ、カマキリはどうなったの?」
と心配そうに除き込みに来た子もいたし、
数名の仲間を連れてきて、
「だろ、よく動くムシだろ」
「たしかに。でも、目はどこ?口はどこ?心臓はどこ?」
「それが、ぼくにもわかんないだよ」
と一緒に観察しはじめる子たちもいた。

今日は、こんなちょっとめずらしい話題が
中学年フロアーで
じわじわと広がっていった
そんな一日だった。…
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カマキリの産卵

教室前では、生き物コーナーが
自然発生的に広がっている。

ザリガニ、バッタ、コオロギ、カブトムシの幼虫、フナ、メダカ。。。
最近では、カマキリも大きくなってきているようで、
登校中や中庭で出会った大きなカマキリが、
このコーナーに運び込まれることも多くなった。

先日、9月21日に、
はやくもカマキリの産卵が確認された。
たしか、昨年のカマキリの産卵の初確認は
10月10頃だったから、
20日間ほど早い。
その昨年の卵たちは、
冬の間理科室で過ごした。
そして今年の春になって、
無数の子どもたちが飛び出してきた。
その日は、教室は大騒ぎになったのを思い出す。

あれから1年。

またカマキリが産卵を始めた。
生態系のサイクルは、
まるで正確な時を刻む時計のようだ。
きっと春には、
また元気なカマキリたちが飛び出してくるのだろう。

そう思っていると、
今日、その生き物コーナーで大スクープがあった。
カマキリがちょうど産卵を始めたのである。
発見者は、いつも休み時間毎に
観察したりお世話をしたりしている仲間たちだった。
この大スクープを
やや興奮気味に担任に伝えにきてくれたのだった。
見ると、
産卵はまだ始まったばかりらしく、
泡状の白い固まりはまだ小さい。

しばらくして、(授業を終えて)
再び、数名の子と様子を見に行く。
カマキリは、まだそこでじっとしていた。
泡状の固まりはやや大きくなっていた。
ながめながら、
子どもたちは写真を撮っている。
「産卵にはどのくらいの時間がかかるのか」
「産卵が終わったらカマキリはどうなるのか」
「自然界での産卵だったら敵から身を守れるのか」
などという疑問も次々とわいてくる。
そのうち、
通りすがりの子どもたちも
何事かと集まって、
即席昆虫観察会となった。

担任自身、このような場面に遭遇したのは初めて。
子どもたちのおかげで
わくわくする気持ちをたっぷりと味わわせてもらえた。

帰宅して、ふと、この日のことを思い出した。
そして、こんな思いが頭をよぎった。

テストにはよくこんなのがよく出題される。
(例)この写真はカマキリの産卵の様子です。季節はいつ?(秋)
   カマキリはどんな姿で越冬するか?(卵) など
きっとこの子たちは、
こんな問題を軽々と解いてしまうのだろうな。
いや、こんな体験をしていない子だって正解できないわけじゃない。
場合によってはこの子たちの方が間違えてしまうかもしれない。
だとしたら、
そんなことをテストで問うことに、一体、どんな意味があるのだろう。

おそらく、この出題の意図は、
自然への興味関心をもつこと、
季節との関連で昆虫の生活をとらえること、
などといったものだろう。

もちろん、
それを「知識」として知っている事は、それ自体大事なことではある。
それならそれで、
「知識」として問う(知っておく)べきことは
もっと別にあるような気がする。
(いつごろ、どこにいけばカマキリの卵は見つけられるか とか)
その「知識」があれば、
その後の豊かな自然体験につながるからである。

もしも、本当に、テストで
自然への興味関心をもつこと、
季節との関連で昆虫の生活をとらえること、
などといったことを問いたいのであれば、
例えば、
カマキリの産卵にはどのくらいの時間がかかるか、とか、
去年の産卵は10月15日だったが、今年はいつごろと考えられるか、とか
まさしく、
あの即席昆虫観察会に集まって、そこで語り合っていた内容のようなことが
問われるべきではないか、
と思ったりもした。

いずれにしても、
自然への興味関心態度などは、
どんなに出題の形式を工夫したとしても、
テストで問うものとは異質なものである、ということか。
これが、とりあえず、この日の結論。…
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