温度と濃さという視点

南極授業が授業であるために44

「しらせ」が厚い氷で動けない。。。?
地球温暖化なのに。。。?
そのわけとして考えられる予想の2つめ。

予想1 海水の温度が下がったからかな

以下、この予想について考えてみたい。

海氷が厚くなることと、
海水の温度が下がることは、
容易に結びつく。
子どもの思考の
予定調和の範囲内だ。

しかし、
海水の温度を語るときに
同様に大切になることがある。
それは、
海水の濃さだ。

海水は、凍るときには
真水の部分だけが凍る。
したがって、
凍って濃さをました海水は、
南極付近ではどんどん沈み込むのである。

南極付近で沈み込んだ海水は、
赤道付近などで上昇するなど、
長い年月をかけて
地球を循環している。
この海洋大循環のスパンは
1000年〜2000年というから壮大なスケールだ。

でも、この循環のおかげで
地球の環境のバランスがとれているのかもしれない。

もしも、
南極での海水の沈み込みが弱まったとしたら、
どこかで海水が上昇することも弱まり、
冷えた海水によって高まる気温をセーブしていた働きも弱くなる。

この循環自体が弱まることは、
地球環境に急激な変化をもたらすことになるのだ。

実は、この水の密度変化による循環は、
やはり、
小学4年生の理科の内容なのである。


水を熱すると、
熱した部分が移動して
やがて全体があたたまる。

それを「対流」という。

どの教科書にも
そう書いてあるだろう。

教科書に書いてあることを
ただ覚えたり、教えたり、学んだりすることは
つまらない。
ものごとの本質を獲得していくところに
学ぶ喜びがあるのだ。

南極授業を通して、
日々の理科の授業への取り組みに
よい影響が出ることがあるとすれば
幸いなことである。”… 続きを読む...

南極授業と小4理科の授業

南極授業が授業であるために43

「しらせ」が厚い氷で動けない。。。?
地球温暖化なのに。。。?
そのわけとして考えられる予想の1つめ。

予想1 雪がたくさん降ったからかな

以下、この予想について考えてみたい。

温暖化が進むことによって、
むしろ、
降雪量が増える、
という、一見矛盾しているようなことは、
実は、
科学の世界では肯定される。
そのことは、
小学4年生の理科の内容で
ある程度説明できるのだ。

温暖化で気温が上昇すると
水面からの蒸発が多くなる。

水面から蒸発した水蒸気は
やがて雲になる。

雲は移動して
雨や雪を降らせる。

大量に蒸発すればするほど、
雨や雪は大量に降る、
というわけだ。

小学4年生の理科では
ものごとの本質をしっかりと学ぶことができる。
だから、やりかた次第では、
そこに、理科の楽しさや魅力を
いっぱい込めることもできるのだ。

お湯と水を上ざらてんびんにのせて釣り合わせる。
しばらくほおっておくと、
みるみるうちに傾き始める。
お湯から水蒸気が出ていって軽くなるのだ。
お湯を暖めれば暖めるほど、その量は増える。
温暖化が進めば進むほど、雪は大量に降る。

南極授業を通して、
日々の理科の授業への取り組みに
よい影響が出ることがあるとすれば
幸いなことである。”… 続きを読む...

矛盾の先にあるもの

南極授業が授業であるために40

授業には、矛盾が必要であると、以前に書いた。
理由は、
その矛盾を矛盾でなくそうとして
子ども自らが動き出すからである。

学ぶことは、本来、楽しいことなんである。

それが、いつのまにか、
学ぶとは、誰かより速くできるようになること、だとか
学ぶとは、誰かよりもっとよい点数をとれるようになること、などのように
なってしまった。

おっと話はそれてしまった。

授業者としては、素材に矛盾を見いだしたら、
こんどは、
その矛盾の先にあるものは何かを
しっかりと見極めておかなければならない。
それこそが、
子どもが新たに獲得するものだからである。
子どもにとっての学びがいというのは、そこにある。


ではなぜ、昭和基地周辺では、
河口付近に大きな石があるのか。

それはきっと「流れる水の働き」とは違う働きなのか。
そうか、南極には流れる水や川はない。
けれども、氷はある。

もしも、その氷が
南極では川のように動いているとしたら。。。

そこから、子どもの心は
壮大なロマンの旅に出ていく。
その過程で、
いつか、だれかが、
その氷の川のことを「氷河」と名付けたことを知る。

「迷子石」の教材化によって
知識とロマンが
子ども達にもたらされる。”… 続きを読む...

矛盾が浮かび上がるとき

南極授業が授業であるために39

昭和基地周辺に点在する
この「迷子石」という素材を教材化するためには、
故郷富山の常願寺川に残る「大転石」が必要となった。

そこで、南極に行くまでにもう一度、
常願寺川の上流から下流まで歩いてみたくなった。
すると、
ある矛盾が浮かび上がってきた。

これは、常願寺川の写真。

上流は

川幅が狭く

流速は速く

石は大きく
ごつごつしている。


中流は

川幅が広くなり

流量が増え

石はやや大きく
丸みをおびてくる。


下流は

川幅がさらに広がり

流量も深さも増し

石は細かく
丸い粒となる。

このように上流、中流、下流と、
その様子がどんどん変化していくのがよくわかる。

小学校理科では、
上流の石はごつごつしていて大きく、
下流(河口付近)の石は丸くて小さい、
と習う。

ある矛盾、というのはここだ。


昭和基地では、
その沿岸の波打ち際に(実際は凍っているので波打たないが)、
こんな大きな岩が
あちこちに見ることができるのだ。
小学校理科では、
下流(河口付近)の石は丸くて小さい、と習うのに、である。”… 続きを読む...

比較物を練るのが授業者

南極授業が授業であるために38

迷子石は、
実に興味深い素材だ。

ただ、
それだけでは教材にならない。

迷子石の教材化のためには、
「もう一手間」が必要だ。

例えば、「比較の場」を意図的につくること。


この写真は、
昭和基地内最大の「迷子石」。
以前に紹介したPANSYアンテナ群の中で
まるで「迷子」なってしまったかのように
おそらく何十年、何百年もの間、ここでたたずんでいる。


この写真は、
故郷富山に実在する「大転石」。
暴れ川の異名をもつ常願寺川沿いに
ある日
突如として現れて以来、
今も自然の猛威を
私たちに無言で語りかけている。

この両者を比べるてみると
子どもの心は動き出す。

富山と南極はこんなに離れているのに、
なぜ、同じような石があるのだろうか、と。

異なるものなのに、共通性を見いだそうとするのだ。

また、比べてみることで
子どもの心はその反対に動くこともある。

富山の大転石は常願寺川の災害で「置き去り」にされたはずなのに、
昭和基地の「迷子石」の近くには、そんな大きな河川はないよ、と。

同じようなもののの中に、異質性を見いだそうとするのだ。

ただ、この比較物は何でもよいわけではない。

子どもを揺り動かす比較物の力を知るがゆえに
その比較物を何にするか腐心するのが
授業者。

その比較物が特になくても
何とかしてしまえるのが、
説明者?解説者?”… 続きを読む...

迷子石の教材化

南極授業が授業であるために37

迷子石。。。

なんとミステリアスな名前だろう。

普通ならば
とてもあり得ないような場所に、
突然、
大きな石が姿を現すのだ。
それは文字通り、
石が「迷子」になってしまって、
そのまま置き去りにされてしまったようにも見える。

そんな「迷子石」と呼ばれるものが、
昭和基地には
たった一つ、
ではなく、
たくさんあるのだ。

南極って、
なんて不思議なところなんだろう。

こんどは、
この「迷子石」を
教材化してみたい。
“… 続きを読む...

風の通り道を感じること

南極授業が授業であるために35

当たり前のことだが、
風車を風上に向けるとよく回る。
その向きがちょっとずれていると、
とたんによく回らなくなる。

そんなときは、
少しずつ向きを調節して、
一番よく回るところを見つけようとする。

そんなことを繰り返しているうちに、
あることに気づかされる。

風車が一番よく回る所は、
つまり、風が吹いてくる方向は、
いつも、ほとんど同じなのだ。

その風が吹いてくる先に目をやってみる。
すると
そこには南極大陸が広がっていた。
南極大陸から吹き下ろされてくる冷たい空気が
こちら昭和基地に流れ込んできているのだ。
いつも、いつも。
ある自然の法則にしたがって。

「風の通り道」というのがあるとすれば、
それはここなんだ、と感じた。

その風のことを
「カタバ風」
というのだが、
そんなことはどうでもいい。

「カタバ風」という言葉をまず知ることよりも
「そのことを(今、感じたそれを)カタバ風という」ってことの方が
大切なこと。

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