ワールドカップ

今、多くの子供たち、大人たちが熱中しているのは、
サッカーのワールドカップ南アフリカ大会に出場している
日本チーム。

老若男女を問わず、
その感動の渦に巻き込まれてしまうということは、
それだけ、多様な価値が、
日本チームの姿にはあるということだろう。

自分の年齢に応じて、
自分の立場に置き換えて、
自分の心の琴線に触れる部分が違うということだろう。

自分の場合は、やはり、
学級づくりということとつなげて考えてしまう。

試合ともなると、相手チームに対して
メディアではよく、
「欠点分析」とか「攻めるのはここ」などという文字が踊る。
TVのコメンテーターなどは、
「それでも欠点があるから大丈夫ですよ」などと平気で言う。

それらを受けて、
「よし、それなら日本チームは大丈夫だ」とか
「なんだか、自信がでてきたぞ」などと思える応援者たちが
増えることでも期待しているのだろうか。

だが、どう考えても、
相手の欠点探し、というのは、
学校で子供たちに伝えていることとは真逆のことだ。

「多くの子供たちに夢を与えたい」
といってはばからない多くの選手たち自身が
そういうことを日本のサポーターに
本当に望んでいるとは思えない。

そう思って、
監督や選手たちの言葉に耳を傾けてみる。
少なくとも、
私が感じた言葉の中には、
相手の欠点を見つける、
というニュアンスのものはない。
むしろ、
「相手のよさ」を徹底分析しているのである。
「相手のよさ」を知ることから戦術を組み立てているのである。
「相手のよさ」を鏡にして自分の持ち味を生かすことを自覚しているのである。

相手の欠点を見つけては、そこにつけいるような言動などはしない。
相手のよさを見つけることで、自分をさらに強くしていこうとする。
反対に言えば、
自分をよりよくしていこうとするなら、まず、
相手のよさを見つけることが先決である、
ということだ。

学級も、然り。

監督や選手たちのこれらの尊い姿は、
学校で子供たちに堂々と伝えられることであるし、
私たちが日々語りかけていることが、
建て前ではないことを
私たちの代わりに証明してくれているのである。

今、多くの子供たち、大人たちが熱中しているサッカーのワールドカップ。
老若男女を問わず感動の渦に巻き込む多様な価値をもつ日本チームの姿。
自分の年齢に応じて、
自分の立場に置き換えて、
自分の心の琴線に触れる部分が違う。
自分の場合は、やはり、学級づくりということ。…
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中学年団体競技

明日は運動会。

今年の中学年の団体競技は「小惑星探査機『はやぶさ』」。
探査機に見立てた長い棒に4人が一緒につかまりながら走る。
途中、「月」や「イトカワ」に見立てたカラーコーンを2つ回って、
最後に元の場所(地球に)戻ってくる。
そこで次の4人にバドンタッチ。
まあ、早い話が、運動会定番の「台風の目」。

それなら「台風の目」という競技名のままにすればよかったのに。。。
その方がわかりやすいし、何より言いやすいし。。。
(確かに「はやぶさ」にしようと決めた私自身もそう思っていた。
 そう、あの日までは。。。)

その気持ちが変わり始めたのは、
はやぶさの7年ぶりの帰還となる6月13日が近づいた頃。
通信不能やトラブルなど数々の困難がありながらも
奇跡の生還をめざす「はやぶさ」は、私たちに
大切なことを身をもって教えてくれていた。

とりわけ、あのThe Last Shotは、多くの人に感動を与えた。
それは、
満身創痍のはやぶさが7年ぶりに見た故郷の姿。
これを、The Last Shot最後のミッションとして焼き付けた後、
自らは二度と地球に戻ることなく星となって燃え尽きるという運命。
                            
このようなことを教室や学校で
「生きた教材」として取り上げていけたらどんなによいか。。。
と教師ならだれでも思うもの。
しかし、それがなかなかできないというのも現実。
せめて、学校行事のひとコマで、
子どもたちの心の片すみに息づいてほしいと願う。

それが、今年の競技名の由来。… 続きを読む...

白いぼうし

4年生の国語の題材「白いぼうし」。
いつの時代も子どもの心を惹き付ける名作。

担任にしてみると、
何度か扱ったことのある題材であるが、
子どもの人生において、それを
かけがえのない出会いとなるようにしなければならない。
無論、
担任にそのような力量があるとは到底思えないが、
できる範囲で、
それに少しでも近づけるようにと思う。

今日は、その最終となる話し合い。
山場はやはり、
あの女の子は一体だれだったのか、というところ。
突然、松井さんのタクシーの後ろの座席に現れ、
二言三言、たどたどしい会話を交わしたかと思うと、
いつの間にか、姿を消してしまう女の子なのだ。

この、おそらく数秒から1分程度と思われる間のできごとに、
4の1のみんなは、休み時間を飛び越えて
約60分間も熱く語り合った。

この間、
女の子の正体はモンシロチョウかどうか議論、
菜の花横町は実在する町かどうか議論、
「よかったね、よかったよ」の声の主は誰なのか議論などが、
あちこちでわき上がった。
これらは、実は、
往年の優れた実践事例の中にでてくるものでもあり、
4の1のみんなの読みの鋭さと豊かな感性に
授業をしながらしびれる思いでいた。

さらに、
「女の子が『四角い建物』と言っているのは空から見ている証拠だ」とか、
「『あ、あの、菜の花横町って。。。』と言うのは口からとっさに出ただけだ」とか、
「『通りの向こう側』から、仲間のモンシロチョウたちが一部始終を見ていた」とか、
実に細部にわたる微妙な叙述に見事に立ち止まり、
自分の考えを創り上げようとしているところにも、
お話の世界を楽しむ素地が育っていることを感じさせられた。
幼い頃からそういう環境を大切になさってこられた
ご家族の教育力を目の当たりにしたような気もした。

最後には、
女の子はマーメイドと一緒説
(人間の世界にあこがれて、一度は自ら菜の花畑を飛び出したものの、
 やはり、異国で暮らすのは大変だった。それでも、松井さんという
 素敵な出会いを得て、故郷のお花畑に戻る。。。という説)
女の子はタイムトラベル説
(女の子は、まだ自然がたくさん残る時代から、突然、近代化が進んだ
 現代にタイムスリップし、道に迷ってしまった。おまけに、
 たけのたけおくんにつかまってしまう。そんな時、松井さんに助けて
 もらう。菜の花横町は昔の町名で、現在は菜の花橋となっている。。。という説)
などが飛び出した。

そう思って「白いぼうし」を読み直してみると、
何度か扱ってきた題材にもかかわらず、
また、別の楽しみ方があることに気付かされるのである。
いったい、どちらが先生なんだか。
 
 …
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脱皮

カマキリの脱皮が始まったのは、
算数の時間がはじまろうとしていた休み時間中のことだった。

虫かごの天井からぶらさがるようにつながっていた体から、
もうひとつ、
乳白色の体が抜け出そうとしていた。
少しずつ体をゆらし、
半分ほど抜けてきていた。

そこで算数の時間となる。
とりあえず、虫かごを教室の中に運びこむ。
そこで考える。
予定通り算数の授業を始めるか、
このまま脱皮の瞬間を眺めるか。

考えながら、
ビデオとカメラとテレビとをセットする。
その間も、
カマキリの脱皮は少しずつ進む。

あ、動いたよ。
もう少しで完全に抜けるよ。
これが草むらの中で起こっているとしたら、
カマキリにとってはキケンがいっぱいなのだろうな。
いや、草むらの方が安全なのかもしれないよ。
がんばれ、がんばれ。
そんな会話が聞こえてくる。

依然、テレビには、
新たな体が離脱していく神秘の光景が映し出されていた。
当然、担任の頭には、
どこで算数の時間を始めようかな、という計算があった。

こんなとき、
つい先日の講演の内容が頭をよぎる。
「脱線」か。

この脱皮も、脱線のうちにはいるのだろうか。

そう思っている最中も、
カマキリの必死の脱皮が続いていた。
担任の迷いも平行して続いていた。

みんなで見つめたあの神秘の世界が、
単なる脱線となるか、
意味ある脱線となるか、
その答えは、やがて、
子どもたちが教えてくれることだろう。…
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本当の親切

先週、
道徳で「親切」の徳目を扱った。

家族のおばあちゃんは体が不自由で、
そんなおばあちゃんには
ふたを開けてあげたり、
できないことを手伝ってあげたりできる自分。

ところが、
街で見かけた目の不自由な方に、
声をかけるべきかどうか迷ってしまった。。。

そんな題材に、
みんなが真剣に向き合った。

中心発問は、
「なぜ、ためらったのか、
 うちのおばあちゃんならできるのに」とした。

子どもたちの道徳的価値観は
みるみるうちに高まっていった。
それが手に取るように、
ひしひしと伝わる。
4の1の集団のもつ力だ。

子どもたちの意見はこうだった。

知らない人だから
「やめて」と言われるかもしれないから
回りの人に変に思われるかもしれないから
その人の大変さがわからなかったから
勇気がでなかったから
緊張していたから
何をしてよいかわからなかったから

こんな様相が、次の発言から
より高みへと向かい始める。

「本当は何かしたい!という気持ちだったと思う。」

そうだね、でも、それが迷惑になるってこともあるよね。
それくらいできるって思われるかもしれない。
自分は親切だと思ってしても、それが余計なお世話になるかも。
本当の親切って、わからなくなってきた。
手を引いてあげるのも親切?、何もしないのも親切?

ここまでくると、授業者自身も本気で考え込んでしまう。

でも、やっぱり真心がこもっていれば、それば親切だと思う。
まず、相手の気持ちを聞いてみたらいいと思う。「手伝いましょうか」って。
相手が困っていることを想像してみてもいいかもしれない。
みんなが幸せになれるのが親切だと思う。

それぞれに、
なんとか自分なりの「親切観」を創り上げようとしているのがわかった。
そのとき、こんな発言も。

そういうこと、たしか空手の先生も言っていたよ。
えっと何だったかなあ。
「情けは人のためならず」
そうそう。

ねえ、それどういう意味?
「親切をしたら、その人のためにはならない」ってこと?
いや、
「親切は、その人のためでなく、自分のため」ってこと。

本当の親切とは?
をめぐって、
子どもたちの道徳的価値観は
みるみるうちに高まっていった。
それが手に取るように、
ひしひしと伝わる。
これは、4の1の集団のもつ力だと思う。
決して一人ではたどりつけない空気が
授業という空間では成立することがあるのである。

これは、学者さん方には
永遠に理解できないことの一つだろうと思う。

さて、本当の親切。。。か。。。

自分だったら、
どう考え、
どう判断して
どう行動できるだろうか。

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