廊下を走らない

一部、廊下を走る子があとをたたない。

廊下を走ってケガをすることの危険性や、
廊下を走ってケガをさせることの重大さや、
廊下を走ってケガをさせてから反省することの愚かさや、
廊下を走って周囲の迷惑になることの想像力や、
廊下を走って押さえられない心のあり方や、
廊下を走っている友達を注意できる勇気や、
廊下を走っている友達がいても自分は走らないという決意や、
そういうことなどを、多方面から、
やってみせ、言って聞かせて、やらせみて、ほめて。。。。。と、
児童・教職員が一丸となって指導を繰り返しているが、
やはり、一部、廊下を走る子があとをたたない。

一昔前なら、
廊下を走っていたら、そのまま廊下に正座させられたものだ。
廊下を走っていたら、すかさず愛の鞭がとんできたものだ。
そうされることで、
はっと気づかされ、我に返ることも多かった。

今では、もちろん、それは御法度である。

その一番の理由は、子どもの人権の尊重であることは言うまでもない。
しかし、一昔前の恩師の方々が、
我々子どもの人権を無視していたとは到底思えない。
むしろ、
「叱ってくれてありがとうございます」だったのだ。

また、
たとえすぐに結果がでなかったとしても、
子どもの心を理解し、真に納得をとりつけて指導することこそが大切で、
表面的な力づくの指導では何も進歩はないから、そこから脱却すべき、
というような主張もある。

もちろん99%、それに同感である。

しかし、明らかに危険な行動に
真に納得をとりつけて指導。。。というのには、
まだまだ、自分は力不足である。
力不足ゆえ、目の前で何度もニアミスが繰り返されたとしても、
これまで、子どもたちが大きな事故に遭わないできたことに
ただ感謝することしかできない。
自分ができることと言えば、せいぜい、
心の底から、
廊下を走ってケガをすることの危険性や、
廊下を走ってケガをさせることの重大さや、
廊下を走ってケガをさせてから反省することの愚かさや、
廊下を走って周囲の迷惑になることの想像力や、
廊下を走って押さえられない心のあり方や、
廊下を走っている友達を注意できる勇気や、
廊下を走っている友達がいても自分は走らないという決意や、
そういうことなどを、多方面から、
やってみせ、言って聞かせて、やらせみて、ほめて。。。。。と、
と指導を繰り返すことだけである。

「廊下を走る」ことへの指導については、
それ以下も、それ以上も許されないのだ。
まあ、それも、
教員としての信頼を社会から失ってきたという
身から出た錆なのだけれど。

教員は、だれだって、廊下を走り回る子が一人でも減るようにと願う。
誰もケガすることのないように。。。
誰もケガさせることのないように。。。

親だって同じことを願う。
我が子がケガをすることのないように。。。
我が子がケガをさせることのないように。。。…
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底力

学校や学級と言うところは、
子どもたちの舞台だから、
日々、いろんなことが起こる。

そんなことがあると、
ときに、
子どもたちの底力を目の当たりにすることがある。

今日、給食の配膳中に、
お皿がいくつもひっくり返った。
担任の指導に、
もっといい方法がなかったか、
前もって心得ておけなかったものか、
と反省しきりである。
まさに、
失敗だらけ、粗だらけだった。

しかし、
そこで担任は、4の1の子どもたちの
底力を目の当たりにすることになる。

ひっくり返った食材を見て、
数人の子たちが飛んで来た。
そして、素手でそれらをかき集めた。

そこに、私も、ぼくも、と集まってくる友達。
差し出したふきんを次々に手にとって
すみずみまできれいに拭いた。

扉や窓に飛び散ったところも、
よく気が付いて拭き取っていた。
溝に入ったのも、壁のネジをゆるめて
ずらして拭き取った。

食材でびしょびしょになった本人は、
みんなに「だいじょうぶか」と声をかけられたが、
気丈にも何事もなかったかのように振る舞った。

そんな姿をよけいに愛しく思った仲間たちが、
汚れたズックを入れるための袋を差し出し、
履き替えた靴下を水道で洗い始めた。

給食が足りなくなった器を見て、
「私のを取ってください」
「ぼくの、全部取ってもいいです」
「よし、今、他の教室に行って聞いてくる」
と善意の行動が織り重なった。

午後からの体育では、
水洗いして履けなくなった内履きズックの代わりに使って、と
試合に出ていない子が自分のズックを差し出した、
と聞いた。

学校や学級と言うところは、
子どもたちの舞台だから、
日々、いろんなことが起こる。

そのたびに担任は反省しなければならない。

だが、そんなことがあると、
ときに、
子どもたちの底力を目の当たりにすることがある。
それは、
4の1の子どもたちが、
担任のあずかりしらないところで
しっかりと育んでいただいて、
学校へ送り出されている、ということを痛感するときでもある。…
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付け足し

国語の学習は、
「かむ」ことの力。
段落ごとのつながりを学ぶことが主眼。

今日は、3〜5段落目に進んでいた。

3段落の内容をおさえ、いよいよ4段落へ向かったときのこと。
4段落の最初の2文字は「また、〜」である。
子どもたちは、すぐに、
「3段落の付け足しだ」と見抜いた。
次の子は、
「3段落の、骨、筋肉、関節。。。の他にも
 まだ「かむ」ことのよさに付け足しがあるということだ」と語った。
次の子は、
「付け足しは付け足しだけど、ただの付け足しではないと思う。
 3段落にはない、違う面の付け足しだと思う」と語った。

この鋭い発言の意味がみんなに少しでも伝わるように、
担任は思わず余計なことを言ってしまった。
「同じものを付け足すのではなく、違うものを付け足す。。。
 なるほど。。。
 アイスクリームのダブル重ねを注文して、
 普通は、バニラ+バニラを注文しないよね。
 やっぱり、チョコミント+オレンジシャーベットのように違う種類を重ねるよね。。。」

子「うん、そうだね。やっぱり違うのを食べたいよね」
子「え?そう?私はいつも、ストロベリーのダブルだけど」

すかさず、
「先生、話が脱線しています!」との声。

あわてて話を元に戻す。
「では、4段落のアイスクリームですが、
 いったい、3段落というアイスクリームに
 何を付け足したのでしょうか?」
 
「それは、『だ液』です」

。。。。。。。。
。。。。。。。。
。。。。。。。。
うわ〜、やめて〜、アイスにだ液を付け足すなんて〜

アイスクリームの例えは質が悪くて申し訳なかったが、
「3段落の内容に、ちょっと違う「だ液」という観点から
 付け足しをしている4段落」
ということを、
このあと、黒板がいっぱいになるまで意見を出し合ったみんなだった。

 

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母の日

昨日は、母の日だった。
それぞれ、
素敵な母へ、
素敵な日をプレゼントしたようだ。

お料理を作って上げた子、
お手紙を書いた子、
手作りのプレゼントを作った子。。。

そんな話をしながら
新出漢字の練習へと入った。
その中の一つに
「毒」という字が出てきた。

ドク。。。という字の中に
なぜ「母」と似た漢字(ははのかん)が使われているのだろうねえ。。。
と、担任。

それは。。。宿題をしないと。。。だから。。。
それは。。。部屋がちらかっていると。。。だから。。。

そんな、ややひかえめな小さな声たちに混じって、
後の席の方からこんな声が耳に飛び込んできた。

お母さんはね、「これは毒なんだよ」と子どもに教えてくれるから
毒という字の中に母と似た漢字があるんだよ思うよ。

そのご名答に、黒板を書く手が思わず止まってしまった。

そもそも、
ドク。。。という字の中に
なぜ「母」と似た漢字(ははのかん)が使われているのだろうねえ。。。
という担任の問いには、
「薬草を煮つぶして作ったものを子どもを産む女の人が飲んだが、
 それを飲み過ぎると逆に体に悪い」
ということから「毒」になった、
という意味の答えがあった。

しかし、
そんな用意しておいた答えより、
「お母さんは『これは毒なんだ』と子どもに教えてくれるから」
という解釈の方が、
当たっているな、と納得させられる。

これは毒である、と教える母は、
動物の世界でもよく見られるという。
これはいけないことである、と教える母は、
我が子を思っているからこそである。
これは正しくないことである、と教える母は、
痛みを伴っているはずである。

そう考えると、
「これは毒なんだよ」と教えてくれる母には、
やはり感謝しなければならない。
これからは、
個人的にはそっちの解釈を使いたい。
そう考えた母の日(の次の日)。…
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生命の躍動

生命の躍動、
というとちょっとオーバーかもしれないが、
ふとしたことでも、
身近な所のあちこちで、
しかも、
ほぼ、同時に動き出したら、
それは、
大きな躍動だと感じてしまうもの。

今朝、カマキリの子どもがたくさん孵っていたのが見つかった。

昨年の秋にクラスの友達によって見つけられ、
虫かごに入れて理科室の片隅に保管し、
いつ孵化してもいいように網のカバーをつけ、
あとは。。。。。記憶の外になりそうだった。。。。
そのカマキリの卵からだった。
ちょうど昨日、
「先生、カマキリはどうなったかなあ。。。」と声をかけられ
久しぶりに思い出させられて、思わずはっとしていたのだが、
その子の鋭い勘が、どんぴしゃり、だったわけである。

間もなく、ワークスペースのザリガニが脱皮していたのが見つかった。

教室に向かう途中、
「先生、先生。。。。」と、ひそひそ声で呼び止められる。
何かあったのかと、聞き耳を立てると、
「し〜っ、ほら、ザリガニが脱皮した」
見ると、まるで、もう1匹増えたのかと思うほど、すっぽりと殻をぬぎ、
その片隅で、まだ、やわらかそうな体をゆったりと横たわらせるザリガニがいた。

一冬を越したノコギリクワガタたちの「けんか」も見つかった。

このところの陽気のせいか、活動が活発になってきたらしい。
これまでケースの中で仲良く過ごしているように思っていたが、
このところ、けんかをしているようにも見えるというのだ。
広い場所に移してやるか、ケースを分ける必要がある、という。
えさのなくなるのも早くなったらしい。

身近な所のあちこちで、
しかも、
ほぼ、同時に動き出した生き物たち。
そこに
毎年毎年、
絶え間なく、リズミカルに繰り返される
自然界の生命の躍動を
子どもたちは見たに違いない。…
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空気の力

閉じ込めた空気は、
おし縮めると元に戻ろうとする。
そこに、子どもは空気の力を感じる。

この単元の学習にあたり、まずは、
自作のペットボトルロケットを飛ばす、
という活動に取り組んだ。
子どもたちには「今日は、ひとつキケンな実験を。。。」
と言ったつもりだが、
空気が創り出す大きな力に、
みんなは、あっという間に魅かれていった。

はじめのうちは、
知らないうちに空気が抜けていたり、
思わず手を離してしまったりしていたが、
ゴム栓を押さえる手の案配に要領を得てくると、
子どもたちのロケットは、
次々と勢いよく飛び出して行った。

その数日後、
教室では、飛んで行くロケットについて話し合っていた。
「空気の力で飛んだのだよ」
「だんだん閉じ込められて行って、限界になると、ボーンって(限界説)」
「満員電車で、人が人を押して、押し出すって感じ(満員電車説)」
そんなイメージを、図を書きながらみんなで話していた。
その時、こんな発言がつながった。
「そうだよ、空気には力があるよ。
 だって、3年生の風車の勉強の時、風くんから力くんが生まれたよ」
「あの時は、何百グラムものおもりを持ち上げたね」

子どもは、(いや、大人でも)
ある問題について考える時、
そのほとんどは、これまでの体験や経験や既習事項をもとに考える。
似たようなことはなかったか。
あの時と同じようなことがあるのではないか。
そのような推察が、
それを確かめる実験によってより確かになる。
さらに、
どのくらい縮むのか、
どのくらい力が出るのか、
などとより定性的、定量的に科学的な思考が進むと考えられる。

だとすれば、
一人一人の中に、
よりよい経験や体験や既習事項が蓄積されてきている事が大切なこととなる。
その、よりよい体験や経験や既習事項とは何か。
それは、おそらく、
押し付けられた経験ではなく、
負の報酬をともなった体験ではなく、
教え込まれた既習事項ではないだろう。

「やってみたい」「おもしろそう」という感情を伴った経験や、
達成や解決や克服といった喜びの伴う体験や、
自ら進んで獲得した知識や技能といった既習事項こそが、
後にある問題に直面した時に、
ふと想起されてくる財産となるに違いない。

そういう財産を日々積み重ねられるようにしたいものだ。… 続きを読む...