くやし涙

体育ではキックベースに取り組んでいる。
練習リーグを終え、
現在、第1回大会の、前半戦の真っ最中。

体育の時間が始まってからの、
コートの準備や得点板のセッティング、
打順の相談や守備位置への移動などは
もう体が覚えてしまっている。

今日は、前半戦の最終ゲーム。
ここまでの結果がはっきり出る日。

今日までは、
勝っても、負けても、
いつもみんなは元気いっぱい、
さわやかな空気で体育を終えていた。

それが、今日はちょっと違っていた。
4イニング制の3イニング目あたりから、
にわかに白熱しだしたのだ。
ワンスローごとに守備位置を確認しあったり、
ワンキックごとにねらう位置を変更したり、
ワンプレーごとに判定にこだわりをみせたり。。。

最終回の4イニングになり、
勝敗が決まりそうになると
焦りはいよいよ高まり、
勝負が決すると
それは涙へと変わった。

そして、
あのプレーはどうだったとか、
本当はこうではなかったはずだとか、
普段は飲み込めていたはずの気持ちが、
今日ばかりは
それを自分自身整理をつけられなくなり、
その気持ちをおさめられなくなることもあった。

そういうときは、
それをおさえるのではなく、
あえて、それを表舞台に出してやるのが鉄則。

今日は、いつもより5分早めに集合。
その5分で
涙のわけを語りながら、
自ら、その気持ちをおさめていき、
また、
涙のわけをくみ取りながら、
仲間たちは、その気持ちをおさめていくのだ。

くやし涙を見せられる純粋なこの時期。。。

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マスクの話

こういう時だからこそ
それについて伝えなければならない。

そういうことがあったクラスだからこそ
こういう学習場面があってしかるべき。

ということで、今日は「マスク」の話。

インフルエンザが猛威をふるう中、
うがい・手洗いが最良の手段でありながらも、
ただ、うがい・手洗いを、と繰り返すだけでは
子どもにとっても耳にタコができる、というもの。

主な話は、最新の?マスク事情について。
今や、マスクにもいろんな工夫がなされているようだ。

たとえば、
かつてガーゼだった部分は、もっと細かい目のものになった。
黒板の菌のイラストから、
ガーゼの編み目に阻まれるイメージや、
その隙間をかいくぐって侵入するイメージを描いていくみんな。
その隙間が小さくなった今のマスクでは
もう心配はいらない、とみんなは思った。

たとえば、
かつてゴムだったところは、鼻の形に合わせてカーブするようになった。
黒板のイメージ図から、
どれだけ編み目を細かくしても、
鼻の隙間からいとも簡単に侵入できるじゃん!
と気づいて笑うみんな。
その隙間がふさがれた今のマスクでは
もう心配はいらない、とみんなは思った。

さらに、
自分の息で眼鏡が曇らないように工夫された
スポンジの羽付きマスクがあることを
目の当たりにしたみんなはびっくり!

そうして、みんなはつぶやく。
C:それじゃ、マスクをさわった手もしっかり洗わないとね!
C:どんなに菌を防いでも、全部は取り除けないよ!

T そうだね、この世の中を無菌状態にすることはできない。
 だとしたら、大事なことは。。。

C:菌の侵入に負けないこと。。。かな。

話の最後に子どもたちからこんな提案が上がる。
C:先生、あした、「マスクの正しい付けた講習会」というのをやりたい!
C:先生、あした、マスクを1箱持ってきます。

今日の「マスク」の話は、
主にこのような流れとなった。
もちろん1箱も持参しなくてよいのだが、
こういう時だからこそ
それについて伝えなければならないという思いが生まれ、
そういうことがあったクラスだからこそ
こういう学習場面ができあがったということか。

かつて、インフルエンザ負け組? だった3の1は、
今や、そこから見事に立ち上がっている!!!!!!…
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青空実験室

朝から、日差しがまぶしい。
今日の理科の時間は、
予定通り「光実験」ができるだろうと楽しみにしていた。
しかし、
秋の空は、移り変わりも早いともいう。
予定を繰り上げて、
早々に行う。

今日の主な学習活動は鏡1枚と2枚との比較。
どちらがどれだけ温まるだろうか、という課題である。

なんの変哲もない課題だが、
その背景には、
3の1みんなで楽しみにしている
ある計画がある。

さて、実験の予想だが、
1枚より2枚の方が温度が上がるだろう、
ということはもちろんだが、
そのとき、
子どものイメージができあがっていくことが大切な過程。
子どもたちは、
光が集まる
光が重なる
光が集中すると温める力が出る
などと語っていた。
教師は、それに合わせて板書をしていくだけ。

途中、
集まったり、重なったりする様子を表す「光くん」が登場すると、
「あ、あの時の、力くんと同じだ」
とイメージがつながっていく。
あの時とは、
そう、「風やゴムのはたらき」の学習のこと。

どちらも、
エネルギーという科学の基礎的な概念だ。

こうした場を経て、
いよいよ(ようやく?)屋上へ。
それぞれに鏡を手にして、
2枚実験、3枚実験へと取り組んでいく。
(1枚と2枚の比較、と授業の入り口では限定するが、
 それが、自然と、「だったら3枚では?4枚では?」
 と動き出すのが子どもの追究の道というもの)
中には、
みんなで協力して鏡を出し合って6枚実験をする子たちや、
黒い紙や黒い服に包んで温度を上げようと発展していく子たちもいた。

温度は、目に見えて上昇していった。
それでも、子どもたちは満足しない。
なぜか?
その背景には、
3の1みんなで楽しみにしている
ある計画がある。

もっと温度を上げたいと願った子どもたちは、
ついに、
「虫めがねをください!」と言い出した。

こうして、1時間で終わる予定の理科の学習は、
2時間続きとなった。

虫めがねを手にした子どもたちは、
視線も、指先も、
光の焦点に集中させていた。
屋上では、話し声はほとんど聞こえず、
ただ、手首や指先がわずかに動いているだけだった。…
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続:ちいしゃんのかげおくり4場面

(前回からのつづき)
いよいよ、話し合いの佳境がやってきた。
話し合いでは、この転機こそが重要だと兼ねてから思っている。
今回、その転機はこの発言が契機となった。

「『きらきらわらいだしました。』の所も
 『死んだ』ことを表していると思います」
担任は、この発言に、
子供たちが立ち向かうべき矛盾があると踏み、
主題へとシフトすることを決める。
「なぜ『わらう』ことが『死ぬ』ことなの?」
「ちいちゃんは、死んだのによろこんでいるの?」

死ぬことはつらいこと、
そうであるはずなのに、
きらきらとわらうちいちゃん、
死ぬことは悲しいこと、
そうであるはずなのに走り出すちいちゃん、
これほど矛盾に包まれた叙述はない。

子供たちは、この矛盾は決して矛盾ではないことを
次のようにして解き明かしていった。

「お母さんに会えたからうれしかったのではないか」
「家族みんなと会えたからではないか」
「戦争というつらい世界よりも天国へ、と思ったのではないか」
「平和な世界、安全地帯という感じなのではないか」
「もう一人ぼっちではないからつらくないのではないか」
「天国で、家族一緒にかげおくりができるからではないか」
「ということは、お父さんもお母さんもおにいちゃんも
 場所は違うけど、みんな死んでしまったんだ」
「自分が死んでいることにすら気付いていないのではないか」
「いや、戦争の方がゆめであってほしいと思っていたのではないか」

子供たちの発言は、どれも、
どこかしらしっとりとしたものがあった。
決してちいちゃんの死を美化するわけではなく、
悲しいけれども救いを見いだすちいちゃんを
ありのままに見つめていたように
担任には思われた。

時間は、やはり60分を超えようとしていた。
これで最後に、と思って指名した子がこういう話をした。
「わたしのおじいちゃんに聞いた話だけれど、
 戦地で亡くなった人は、
 たった一枚の手紙でそれを知らされるだけだったそうです。
 残された家族は、それしか受け取ることができなかったから、
 そんな家族もとってもくやしくて悲しかったと思います。
 そういうことから考えると、
 ちいちゃんも、
 ちいちゃんの家族も、
 みんな一緒に会えたから、もしかしたら、
 それでよかったのかもしれないと、今、思っています。」

大切なお話をご家族の方と話されていること。
こうして、今自分の命があることを知ること。
3の1教室でその話を語りかけてくれたこと。
大きな余韻を残して授業が終わった。…
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ちいちゃんのかげおくり4場面

日に日に、秋の深まりを感じるこのごろであるが、
国語「ちいちゃんのかげおくり」も、
場面を追うにつれて、ぐっと読みが深められている。
そんな3の1のみんなに圧倒されっぱなしで、
気がつけば、4場面まで進んできた。

今日までに、4場面の書き込みを終えていて、
いよいよ、本題材の中心的な部分となる4場面の話し合い。

号令を終え、
黒板に「4場面」と書くやいなや、教室からは
「ここ、かわいそうだよね」
「ちいちゃんが死んだんだよね」
というつぶやき。

すかさず、
「なんで『かわいそう』なの?」
「ちいちゃんが『死んだ』とは一言も書いてないよ」
と担任。
すると、さらにすかさず、
「はい!はい!」
「だって!」
と子どもたち。

話し合いの課題は、こうして一瞬で決まった。
(というか、あらかじめ担任は
 「ちいちゃんが「死んだ」ということがどこからわかるか」
 という出だしの課題をもって臨んでいたが、
 そこに、思わず子どもたちの
 「ちいちゃんが死んだんだよね」
 とういうつぶやきが投げ込まれたことによって、逆に担任は、
 「『死んだ』などとは一言も書いてないよ」
 と、自分の想定とは正反対の切り返しをせざるを得なくなり、
 それでもそれが、子どもの考えてみたいこと合致していったのだが、
 言い方は違えども、結局、学習活動としては同じことで、
 授業の課題というのは、
 いつも大人の教師が思い描いているようにはでてくるものでなく、
 やはり、子どもの言葉で設定されるのが理想というもので、
 でも、それは子どもまかせではいいというわけではなくて、
 どこからでも感想をいってごらん、と授業をスタートさせるとか
 あるいは、出たとこ勝負でなんでもこい、とかでは、
 よほど熟練した教師でない限り。。。。。
 いや、熟練した教師ほど、この授業の立ち上げには
 緻密な想定をもっているもので。。。。
 今回の私の場合も、
 子どもの言葉でそれを想定できなかった精度の甘さがあったわけで。。。
 (ひとりごと、ひとりごと。。。)

さて、
窓口となる課題が決まれば、
子どもたちは堰を切ったように
どんどん思いを出してくる。

子どもたちが「死」を暗示していると感じた叙述とそのわけは
例えば、
「体がすうっとすきとおって」
(足が地面から離れたということは天国に行ったことを意味するから)
「空色のお花畑の中に」
(現実は戦争で焼け野原になっているのに「花畑」だから)
「小さな女の子の命が、空に消えました」
(「消えた」というのは「無くなった」「亡くなった」ことだから)
などだった。

途中で
その「小さな女の子」というのはちいちゃんのことだという意見も出る。
驚かされたのはその次の発言。
なぜ「ちいちゃん」と作者は書かなかったのかわかるよ、
という言いながら挙手した子がいたのだ。
思わず、その真意を聞いてみたくなった。
すると、
「死んだのは、ちいちゃんだけではなかった。
 戦争ではたくさんの子供たちも死んでいったと思う。
 だから、作者は、
 それほど戦争はひどいものなのだ、と伝えたかったんだ」
それに続いて、
子どもだけじゃない、たくさんの大人もそうだった。。。
という意見も続いた。

いよいよ、話し合いの佳境がやってきた。
話し合いでは、この転機こそが重要だと兼ねてから思っている。
今回、その転機はこの発言が契機となった。
(つづく)…
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