ポスティングシステムの落とし穴

今シーズンのプロ野球も一息ついた。
今は、来シーズンに向けてのトレードの話で持ち切り。
中でも、ポスティングシステムの落とし穴が露呈したという話題は
今後も波紋を呼びそうだという。

そんなプロ野球の話なんか。。。
と思っていたら、そうでもなかった。

それまで4の1では、
給食を完食する日がとても少なかった。
他のクラスはよくがんばっていたようで、
完食のご褒美としてもらえる「パクパクの木の葉」を
たくさん集めていた。
4の1は、というと、それまでたったの1枚だった。。。

対策はいろいろあっただろう。
例えば、完食できた人に賞を与える、という対策。
しかし、元来、食が細い子など個人差があることを考えて、却下。
ならば、完食できるまで時間を延長してでもがんばる、という対策。
しかし、食器の洗浄など後々の作業への限界を考えて、却下。

そこで、今回浮上してきたのは、食べる量を調節する、という対策。
一旦、配膳された食事から、
自分が食べられる量を考えて、
無理そうならば、あらかじめ量を減らす、
つまり、自分のおかずを「ポスティング」する、
それを、自分なら食べられそうだ、という子が「引き受け」る、
ただし、まるまる全部「ポスティング」するのは禁止、
少しでも、がんばって、好き嫌いせず食べる、
というのが唯一のルール。
いわゆる「給食のポスティングシステム」である。

このシステムは、
導入直後から、大好評。
連日、完食の日が続いているのである。
今や、4の1の「パクパクの木の葉」は繁々としている。

ルールもしっかりと守られていて、
嫌いなおかずを「丸投げ」する子などはいない。

さらには、
妙なところで、クラスの協力体制?が結束してきてもいる。
「あと、これだけだよ〜」と誰かが呼びかけると、
「それなら、自分が」と誰かが必ず名乗り出て、
「わ〜、ありがとう。○○さんのおかげだ」と讃え合う。
そんな中、
ひそかにくじけそうになっていた子も、
「ねえ、○○くんががんばってくれたんだよ」と知らされると、
「よっしゃああああ」と最後のひとふんばりをし始める。
そういう光景があちこちで繰り広げられ、
その結果として
連日、完食の日が続いているのである。

それなら、万々歳ではないか。。。
と、思いたいところなのだが。。。

「給食のポスティングシステム」の落とし穴が見えたのは
それから数日後のことだった。

その日は、パン給食だった。
なんと、
食パンが山のように「ポスティング」されたのだ。
その数16枚。
「ポスティングシステム」導入前には
あり得なかったことだ。
残されたパンは、合わせても、せいぜいで0.5枚から1枚程度。
それが、
ポスティングが可能になったことで
16枚にも跳ね上がったのである。

これでは、
いくらクラスの協力体制が強くなったからといっても
到底食べきれる数ではない。

いや、そんなことが本質的な問題ではない。
そんなことより、
安易に残すことを選ぼうという気持ちになった(気持ちにさせた)
ことの方が問題なのである。

そもそも、給食指導、とりわけ、
好き嫌いせず残さず食べる、ということの指導は
一筋縄ではいかないもの。

考えてみれば、
残さず食べきる、というのは
極めて個人的なことがらである。
しかし、そこには、
時には集団のもつ力が必要であったり、
時には競争という要素が効果的にはたらいたり、
時には褒賞が勇気になったり、
時には叱咤が激励になったりすることもよくある。

今回の「給食のポスティングシステム」は、
そういう意味では、一定の成果を得たことは確かである。
ただ、
クラス全体として残食がなくなり、
クラス全体として完食が達成される、ことにだけ
目を奪われることがあってはならない。

いくら、クラス全体として残食がなくなったからと言って、
40人全員が完食しているわけではないのである。

本当の意味で、
「給食のポスティングシステム」を有効に働かせようとするならば、
現時点では、
「ポスティング」によって
集団のもつ力を引き出すことをよしをしながらも、
やがては、
「ポスティング」しなくても
40人全員が食べきれるような力を養っていく、
という明確な目的と意思をもたなければならない。

しばらくは、
「給食のポスティングシステム」を見守って行く事になるだろうが、
これからは、
「パクパクの木の葉」の数だけを追わないようにしたい。

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光る立山

今年の書き初め大会の題字は
「光る立山」
これから十回、百回と練習することになる
「光る立山」

毎日見ているはずの立山連邦ではあるが、
子どもたちは、案外、
その大きさや美しさに圧倒されてしまった。。。
というほどのインパクトまでは味わっていないのかもしれない。

書き初め大会の練習開始を来週に控えたこの日、
教室の窓の外には、
ちょうどくっきりと立山連峰が「光って」いた。
まるで、子どもたちに
「さあ、見においで。そして、立派な字をかくんだよ」
と言ってくれているように思えた。

さっそく、画用紙と鉛筆をもって
屋上へと向かうことにした。
屋上の扉を開け、数歩進んだ、その時。
子どもたちの目の前に
雄大な立山連峰が飛び込んできた。

「わあ〜。。。」

子どもたちは、あっという間に
立山連峰に惹き付けられていった。
「先生、すごくきれいですね。」
「なんか、かっこいいなあ。」
「こんな景色がすぐそこにあるなんて、富山ってすごいところだなあ。」

毎日見ているはずの立山連邦の
その大きさや美しさに圧倒されるほどの
インパクトまでは味わっていないのかもしれない子どもたち。。。
と思っていたが、
やはり子どもの感性は、実に瑞々しい。

このあと、
「光る立山」の峰を眺めての鉛筆写生大会となった。

それから間もなく、
子どもたちは
すっかりその景色に溶け込んでいった。

その光景を見ながら
新春の書き初め大会が、
今から楽しみになってきた担任であった。

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5年前

5年前に作った理科の教材がある。
4年「もののかさと温度」の学習の教材である。

この単元では、
空気のかさは、温度が高いと大きくなり、
温度が下がると小さくなることを学ぶ。
水も同様。
ただし、その変化の大きさは、
空気に比べて小さい。

この現象を教科書では、
試験管の口の石けんの膜が膨らむことや
フラスコの栓が飛び出すことなどによって示している。
水の場合は、
ガラス管の中のインクやゼリーが
上昇したり下降したりすることによって示している。

子どもが扱う「もの」は、
試験管になったり、
フラスコになったり、
ガラス管になったり、と、
そのときそのときで追究が分断されてしまうことが気になっていた。
また、
試験管はともかく、
他の道具は40人一人一人に行き渡るものではなく、
どうしてもグループ学習にならざるを得なかった。
さらに、
試験管、フラスコ、ガラス管などは、
破損の危険も伴った。

5年前、
ある飲料水の瓶(130ml程度)が目に留まった。
それを50本集めた。
始めからついていたスクリューキャップは使い捨てだが、
ちょうどペットボトルのふたが再利用できた。
ペットボトルのふたにドリルで3.5mmの穴をあけ、
そこに外径3mmの金属製のパイプを20mmの長さに切って差し込んだ。
すきまから空気がもれないように、
外径4mmのゴム管をパッキンがわりにした。
こうすると、ちょうど、ペットボトルキャップの独楽のような形になる。
あとは、その上部にプラスチック製の細い管を取り付け、
その下部(瓶の内側になる部分)にはゴム管を取り付けると完成。
まあ、ここまでは、いろいろな部品を試したが、
プロトタイプができさえすれば、
あとは同じ作業を繰り返して大量生産すればいい。

こうして、
瓶の中を空にして温めたり冷やしたりすれば空気のかさの変化を、
瓶の中に水を満たして温めたり冷やしたりすれば水のかさの変化を、
追究していく「教材」ができた。
子どもにとっては、
いつも同じ装置で、
同じ追究の道筋で、
40人が一人一実験で、
比較的安全に、
追究できるようになった。

その教材を5年ぶりに取り出して使っている。
破損したり、劣化したり、欠品したりしている部分もあったが
そこはもともと手作り製品、
修理はすぐにできる。

実際に授業をしてみると、
驚いたことに、
子どもたちの生き生きとした反応は、
あのときと一緒だった。

それは、この教材がいい、といいたいのではない。
子どもはいつの時代も変わらない、ということをいいたいのである。
事象に十分に触れたり、
よく観察したり、
何度も繰り返し試したりして、
自分の見方や考え方が瞬時に更新されていくことに
何よりも喜びを感じる存在なのである。

生まれて初めて、を体験する子どもたちの様々な機会を
どうプロデュースしていくか、
まだまだ学ばなければならないことが多い。
学校でも、家庭でも、地域社会でも。…
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季節外れ

4の1の小動物コーナーに
新たななかまが加わった。

驚いたことに、アゲハの幼虫だった。

近頃の冬を感じさせるような寒い日々は、
昆虫たちの冬支度も容易に想像させていたが、
なぜか、
このアゲハは、幼虫のままだった。

この季節外れのアゲハの幼虫に
さっそくみんなが集まってきた。

どうして、今頃?
なぜ、さなぎにならなかったの?
このあと、どうなるの?
もしも、自然の中にいたら?

と、一気に、
みんなのあれ?なぜ?どうして?が吹き出してきた。

そして、次の瞬間には、
「なんとか無事にさなぎにさせようプロジェクト」
がスタートしていた。

みかんの葉っぱがある方は、ご協力をお願いします。

それにしても、
いったいどっちが季節外れなのだろうか?

気温やえさの量や棲息環境や、
その他多様な自然の営みで動いているのは、
むしろアゲハの方。

「秋になるとアゲハは蛹になります」
という模範解答は、
アゲハにとっては何の意味ももたない。

もしかしたら、アゲハの体内時計から
大きく外れたことをしているのは
人間界の営みの方かもしれない。

まあ、心当たりはいっぱいある。
「○○しているなんて、季節外れだね」
とアゲハさんから言われてしまいそうだ。

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学級というところ

今日の算数の時間。
「ちがいに目をつけて」
例えばこんな問題。

「つとむさんとはなこさんで60個作ります。
 つとむさんははなこさんより10個多く作ります。
 つとむさんとはなこさんはいくつずつ作りますか。」

だが、別に、今回は、
この問題の解決をめぐる算数的な話ではない。
この問題の解決をめぐる人間的な話である。

「ちがいに目をつけて」だから、模範的な解法は以下。
60−10=50
50÷ 2=25(はなこさんの数)
25+10=35(つとむさんの数)
このことをA児やB児が次々と説明した。

そこで、まだ他にもあるよ、とZ児。
自分のやり方はね。。。と次のような式を立てた。
60÷ 2=30
30-10=40(はなこさんの数)
30+10=20(つとむさんの数)
この解法では、
確かに二人の合計は60にはなるが、
二人の「ちがい」は10ではなく20になってしまう。

そこにすかさず、それを改良すればいい、とY児。
60÷ 2=30
10÷ 2= 5
30- 5=25(はなこさんの数)
30+ 5=35(つとむさんの数)
この改良によって、
二人の合計は60になり、かつ、
二人の「ちがい」は10になる。

ここで多くの子が納得した。
どちらの方法も正解である。
担任は、
前者をA•B法と名付け、
後者をZ法と名付けた。

その時である。

突然、Z児がこう言った。
「先生、その方法(後者の方法)は、Z•Y法です」と。

言うまでもないが、この発言には、こんな意味がある。
すなわち、
自分(Z児)が正答した解法は、
Y児が誤答したものをもとに改良を加えたものであって、
自分(Z児)と友達(Y児)との共作なのである、
ということを担任に進言しているのである。

感心させられるのは、
「Z•Y法と名付けるべきだ」と語った主が、
正答を述べたZ児であったということである。

その直後、
Y児はZ児に歩み寄り、
二人で、がっちりと固い握手を交わしていた。
その様子を、
みんなは微笑んで見つめていた。

有名な言葉に
「学級は間違う場所である」
というのがある。
ただ、
言うは易し、行うは難し。
なかなかそうはいかないものである。
なかなかそうはいかないはずのものが、
目の前で繰り広げられた今日の算数の時間。

こういうのを知るにつけ、
やれ、PISA型学力がどうだとか、
やれ、フィンランド何とかだとか、
やれ、全国順位がどうだとか、
ということの味気なさを想う。

そういうことを声高に言う立場の方々は、
こういう現場のドラマを味気なく想うのだろうか。

かつて、「ゆとり教育」がやり玉にあがったときも、
どなたかが論じていた。
「現場のことを知らない人や、そこから遠い立場にある人に限って、
 『ゆとり教育』を批判する傾向がある」と。

今、時代の寵児のようにもなっている
PISA型学力を推進なさる方々、あるいは、
フィンランド何とかに傾倒されている方々などが、
そうではないことを願うばかりである。

問題解決能力をめぐる話は、いつも教科的な話ばかりとは限らない。
問題解決能力をめぐる話は、極めて人間的な話ということもあるのである。
そういう話がまじめにできるのが、
学級というところであり、
教育の現場というところである。…
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何かもっている

今日は、音楽会に向けての最終練習。
いつもそう思っているつもりだが、
担任にとって、今日までの過程が音楽会そのものだった。
陸上記録会も、運動会も同様だ。

その最終練習を
一日の生活の中のどこで行うのがよいか。
朝一番からするのがいいか、
しばらくしてからの2時間目くらいにするのがいいか、
給食前の4時間目くらいにするのがいいか、
午後からがいいか、
そんなこともついつい考えてしまうのが担任というもの。

今日の4時間目。
ついに、そのタイミングがきた。
みんなの気持ちが、なんとなくほぐれていて、
のどのちょうしもなんとなくうるおっていて、
全身に入る力も、なんとなくみなぎっていた、
そんな気がしたのが4時間目だった。

その最終練習での歌声には、
何か伝わるものがあった。
これまで越えられそうで越えられなかった何かを
越えたような気がした。
4の1は何かをもっている、
そう思わせるものがあった。

今日までの過程の
最終地点で感じたことがそれだった。

昨日、大学野球屈指の注目投手は、
「何かをもっていると言われ続けてきた。
 自分なりに考えた結果、
 それは仲間です。」
と語ったという。

明日の音楽会では、
4の1の「それ」は何だったのかを
自分なりに考えてみたいと思う。…
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