友情のボールは必要か

友情のボールは必要か

これがこの日の学級会の話題になった。

ことの発端は、
近頃、クラスにある2つの緑ボールと黄色ボールの
取り合いが生じていることにあった。

これまでは、
なんとなく男子用、女子用とわかれていたり、
なんとなくドッチ用、野球用とわかれていたりして、
暗黙の了解が得られていた。

それが最近、
ドッチと野球の両方にボールが使われて、
一部の子たちが使えないというようないさかいが
いくつか発生していた。

事情はなかなか複雑だった。
ドッチにも野球にも男女が交じって参加していることもあり、
「ドッチには女子用のを使っているつもり」
「野球には男子用のを使っているつもり」
「だったら、女子だけでドッチをしたいときは、
 どのボールを使ったらいいの?」
などその境界線が曖昧になっていたのだ。
どちらの言い分にも、それなりの理由があった。

そこで、ついに話し合いとなったのである。

はじめは、ことの事実をあきらかにしていく。
もちろん、双方の考え方が比較できるようにしていく。
すると、どちらにも言い分があって合意点が見つからなくなる。
そういうことは、クラスではよくある。

ここで
「だったら、もう一つボールを買ってけんかをなくせばいい」
「友情のボール、ということだね」
という案が提案された。
なんとかしたいという願いが生んだ折衷案、解決案だった。

確かに、もう一つボールがあれば、
みんなが円満に解決できる。
けんかを避けたいという思いが、その案には込められていた。

ここからが、4の1のすごいところである。

「でも、友情のボールはいらないと思います」
「きっと、そのボールの取り合いがまた始まると思います」
「みんなで解決することの方が大事だと思います」
「ゆずりあえばすむことがあるかもしれません」

ボールの取り合いやけんかはしたくない、という4の1。
だけど、よけいな「友情のボール」は必要ない、という4の1。

とてもすてきな仲間たちが共に生活する4の1だと思う。

続きを読む...

ケルルンクック

ケルルンクック
ケルルンクック
で有名な草野心平さんの詩「春の歌」

ほっ まぶしいな
ほっ うれしいな

などというリズミカルで軽快なことばには、
春の訪れを謳歌する姿が
生き生きと描かれている。

子どもたちも、
これらのことばに触れて、
「やっと春がきたからうれしいんだ」
「広い世界に出てきて伸び伸びしている」
「あたたかいなあ〜といい気分になっている」
などと読みを進めた。

「ケルルンクック」というカエルの言葉を訳したら
いったいどんな言葉になるのだろう?
そんな担任の問いかけに、
「温かい水だな」
「いいにおいの風だな」
「一年前を思い出したよ」
「なつかしいな」
などという意見が相次いだ。

子どもたちの読みは、ほぼ出来上がった。

ここで、
草野心平さんのもう一つの詩「秋の夜の会話」を提示した。
その中には、次のような言葉が出てくる。

「虫がないてるね。 ああ虫がないてるね。」
「もうすぐ土の中だね。 土の中はいやだね。」
「痩せたね。 君もずいぶん痩せたね。」
「どこがこんなに切ないんだろうね。 腹だろうかね。」 
「腹とったら死ぬだろうね。 死にたかあないね。」
「さむいね。 ああ虫がないてるね。」

先ほどまでの、楽しげな明るい詩と一変して、
子どもたちは、カエルたちの越冬のつらさを目の当たりにする。

「先生、こわい。。。」
「なんだか、切ないね。。。」
「さっきの詩が明るかったのに、この詩は急に暗くなったよ」
「死にたくない!」
「おなかがすいた!」
「また生きて会いたいね、と言い合っている」
「土の中はいやだ!だからと言って、
 このまま土の中に入らないと雪で死んでしまう。
 まるで最終決断を迫られているみたい」

その時、再び、子どもたちは「春の歌」に戻ってきた。

「ほっ というのは、生きていてよかったの ほっ だと思う」
「風はつるつる というのは、生きている風 という意味だ」
「一年、一年、大事に生きようと思っている」
「二人で、また会えたね、と確かめ合っている」

ケルルンクック
ケルルンクック
で有名な草野心平さんの詩「春の歌」
ほっ まぶしいな
ほっ うれしいな
などというリズミカルで軽快なことばには、
春の訪れを謳歌する姿が
生き生きと描かれている。
こうした「春」をまちわびる気持ちが生まれるのは、
それだけ、寒い冬に暗い土の中で耐えたからこそであろう。
きっと、私たちもそうだろう。

子どもたちの思考は、
この二つめの詩によって、再び活性化し、
読みをさらに深めていった。

実は、
この国語の授業の発想は、
本校の前研究主任が実践したものである。
そのときの鮮烈な印象が忘れられず、
4年生を担任した今年、
その通りにとまではいかないまでも、
子どもたちと取り組んでみようと思ったのである。
二つめの詩に触れてから、
再び最初の詩に戻って読みを深めていく子どもたちの姿に
素直に感動した。…
続きを読む...

廊下を走らない

一部、廊下を走る子があとをたたない。

廊下を走ってケガをすることの危険性や、
廊下を走ってケガをさせることの重大さや、
廊下を走ってケガをさせてから反省することの愚かさや、
廊下を走って周囲の迷惑になることの想像力や、
廊下を走って押さえられない心のあり方や、
廊下を走っている友達を注意できる勇気や、
廊下を走っている友達がいても自分は走らないという決意や、
そういうことなどを、多方面から、
やってみせ、言って聞かせて、やらせみて、ほめて。。。。。と、
児童・教職員が一丸となって指導を繰り返しているが、
やはり、一部、廊下を走る子があとをたたない。

一昔前なら、
廊下を走っていたら、そのまま廊下に正座させられたものだ。
廊下を走っていたら、すかさず愛の鞭がとんできたものだ。
そうされることで、
はっと気づかされ、我に返ることも多かった。

今では、もちろん、それは御法度である。

その一番の理由は、子どもの人権の尊重であることは言うまでもない。
しかし、一昔前の恩師の方々が、
我々子どもの人権を無視していたとは到底思えない。
むしろ、
「叱ってくれてありがとうございます」だったのだ。

また、
たとえすぐに結果がでなかったとしても、
子どもの心を理解し、真に納得をとりつけて指導することこそが大切で、
表面的な力づくの指導では何も進歩はないから、そこから脱却すべき、
というような主張もある。

もちろん99%、それに同感である。

しかし、明らかに危険な行動に
真に納得をとりつけて指導。。。というのには、
まだまだ、自分は力不足である。
力不足ゆえ、目の前で何度もニアミスが繰り返されたとしても、
これまで、子どもたちが大きな事故に遭わないできたことに
ただ感謝することしかできない。
自分ができることと言えば、せいぜい、
心の底から、
廊下を走ってケガをすることの危険性や、
廊下を走ってケガをさせることの重大さや、
廊下を走ってケガをさせてから反省することの愚かさや、
廊下を走って周囲の迷惑になることの想像力や、
廊下を走って押さえられない心のあり方や、
廊下を走っている友達を注意できる勇気や、
廊下を走っている友達がいても自分は走らないという決意や、
そういうことなどを、多方面から、
やってみせ、言って聞かせて、やらせみて、ほめて。。。。。と、
と指導を繰り返すことだけである。

「廊下を走る」ことへの指導については、
それ以下も、それ以上も許されないのだ。
まあ、それも、
教員としての信頼を社会から失ってきたという
身から出た錆なのだけれど。

教員は、だれだって、廊下を走り回る子が一人でも減るようにと願う。
誰もケガすることのないように。。。
誰もケガさせることのないように。。。

親だって同じことを願う。
我が子がケガをすることのないように。。。
我が子がケガをさせることのないように。。。…
続きを読む...

底力

学校や学級と言うところは、
子どもたちの舞台だから、
日々、いろんなことが起こる。

そんなことがあると、
ときに、
子どもたちの底力を目の当たりにすることがある。

今日、給食の配膳中に、
お皿がいくつもひっくり返った。
担任の指導に、
もっといい方法がなかったか、
前もって心得ておけなかったものか、
と反省しきりである。
まさに、
失敗だらけ、粗だらけだった。

しかし、
そこで担任は、4の1の子どもたちの
底力を目の当たりにすることになる。

ひっくり返った食材を見て、
数人の子たちが飛んで来た。
そして、素手でそれらをかき集めた。

そこに、私も、ぼくも、と集まってくる友達。
差し出したふきんを次々に手にとって
すみずみまできれいに拭いた。

扉や窓に飛び散ったところも、
よく気が付いて拭き取っていた。
溝に入ったのも、壁のネジをゆるめて
ずらして拭き取った。

食材でびしょびしょになった本人は、
みんなに「だいじょうぶか」と声をかけられたが、
気丈にも何事もなかったかのように振る舞った。

そんな姿をよけいに愛しく思った仲間たちが、
汚れたズックを入れるための袋を差し出し、
履き替えた靴下を水道で洗い始めた。

給食が足りなくなった器を見て、
「私のを取ってください」
「ぼくの、全部取ってもいいです」
「よし、今、他の教室に行って聞いてくる」
と善意の行動が織り重なった。

午後からの体育では、
水洗いして履けなくなった内履きズックの代わりに使って、と
試合に出ていない子が自分のズックを差し出した、
と聞いた。

学校や学級と言うところは、
子どもたちの舞台だから、
日々、いろんなことが起こる。

そのたびに担任は反省しなければならない。

だが、そんなことがあると、
ときに、
子どもたちの底力を目の当たりにすることがある。
それは、
4の1の子どもたちが、
担任のあずかりしらないところで
しっかりと育んでいただいて、
学校へ送り出されている、ということを痛感するときでもある。…
続きを読む...

付け足し

国語の学習は、
「かむ」ことの力。
段落ごとのつながりを学ぶことが主眼。

今日は、3〜5段落目に進んでいた。

3段落の内容をおさえ、いよいよ4段落へ向かったときのこと。
4段落の最初の2文字は「また、〜」である。
子どもたちは、すぐに、
「3段落の付け足しだ」と見抜いた。
次の子は、
「3段落の、骨、筋肉、関節。。。の他にも
 まだ「かむ」ことのよさに付け足しがあるということだ」と語った。
次の子は、
「付け足しは付け足しだけど、ただの付け足しではないと思う。
 3段落にはない、違う面の付け足しだと思う」と語った。

この鋭い発言の意味がみんなに少しでも伝わるように、
担任は思わず余計なことを言ってしまった。
「同じものを付け足すのではなく、違うものを付け足す。。。
 なるほど。。。
 アイスクリームのダブル重ねを注文して、
 普通は、バニラ+バニラを注文しないよね。
 やっぱり、チョコミント+オレンジシャーベットのように違う種類を重ねるよね。。。」

子「うん、そうだね。やっぱり違うのを食べたいよね」
子「え?そう?私はいつも、ストロベリーのダブルだけど」

すかさず、
「先生、話が脱線しています!」との声。

あわてて話を元に戻す。
「では、4段落のアイスクリームですが、
 いったい、3段落というアイスクリームに
 何を付け足したのでしょうか?」
 
「それは、『だ液』です」

。。。。。。。。
。。。。。。。。
。。。。。。。。
うわ〜、やめて〜、アイスにだ液を付け足すなんて〜

アイスクリームの例えは質が悪くて申し訳なかったが、
「3段落の内容に、ちょっと違う「だ液」という観点から
 付け足しをしている4段落」
ということを、
このあと、黒板がいっぱいになるまで意見を出し合ったみんなだった。

 

続きを読む...

母の日

昨日は、母の日だった。
それぞれ、
素敵な母へ、
素敵な日をプレゼントしたようだ。

お料理を作って上げた子、
お手紙を書いた子、
手作りのプレゼントを作った子。。。

そんな話をしながら
新出漢字の練習へと入った。
その中の一つに
「毒」という字が出てきた。

ドク。。。という字の中に
なぜ「母」と似た漢字(ははのかん)が使われているのだろうねえ。。。
と、担任。

それは。。。宿題をしないと。。。だから。。。
それは。。。部屋がちらかっていると。。。だから。。。

そんな、ややひかえめな小さな声たちに混じって、
後の席の方からこんな声が耳に飛び込んできた。

お母さんはね、「これは毒なんだよ」と子どもに教えてくれるから
毒という字の中に母と似た漢字があるんだよ思うよ。

そのご名答に、黒板を書く手が思わず止まってしまった。

そもそも、
ドク。。。という字の中に
なぜ「母」と似た漢字(ははのかん)が使われているのだろうねえ。。。
という担任の問いには、
「薬草を煮つぶして作ったものを子どもを産む女の人が飲んだが、
 それを飲み過ぎると逆に体に悪い」
ということから「毒」になった、
という意味の答えがあった。

しかし、
そんな用意しておいた答えより、
「お母さんは『これは毒なんだ』と子どもに教えてくれるから」
という解釈の方が、
当たっているな、と納得させられる。

これは毒である、と教える母は、
動物の世界でもよく見られるという。
これはいけないことである、と教える母は、
我が子を思っているからこそである。
これは正しくないことである、と教える母は、
痛みを伴っているはずである。

そう考えると、
「これは毒なんだよ」と教えてくれる母には、
やはり感謝しなければならない。
これからは、
個人的にはそっちの解釈を使いたい。
そう考えた母の日(の次の日)。…
続きを読む...