ちいちゃんのかげおくり60分

国語「ちいちゃんのかげおくり」での学習が始まった。
題名読み、
一読後の感想、
語彙調べ、と学習は進み、
いよいよ一場面の書き込みを終え、
この日は、その話し合い。

一場面は、
出征前の家族が
みんなで一緒にかげおくりをする姿が描かれているが、
それを「記念写真だなあ」とつぶやくところが印象的。

さて、ここを子供たちがどう読み深めていくか。
この場面の中で、
子供たちにとっての矛盾が
どう生まれていくか。
その想定と、
その向こう側に見えてくる主題への迫りが、
国語の授業の核であり、
教師の役割の主要な部分でもあると、
(それができるかできないかは別として)
自覚しているつもり。

そこで、
授業の最初の切り口(見かけの切り口)をこのように設定した。
「一場面で、楽しそうなところはどこだろう?」

一行ごとに、あるいは一つ一つの言葉ごとに
書き込みを終えていた子供たちは、
次々に発言した。
「『ひとおつ、ふたあつ、みっつ』のところだ」
「『よおっつ、いつうつ、むっつ』のところだ」
「『ななあつ、やあっつ、ここのうつ』のところだ」
「ここは、どんどん楽しさがアップしているよ」
「『とお。』で一番楽しさが大きくなるよ」

時折、音読も入れてみる。
「ひとおつ、ふたあつ。。。」(普通に)
「よおっつ、いつうつ。。。」(やや大きく)
「ななあつ、やあっつ。。。」(どんどん大きく)
「とお」(最高に大きく)
読み取りの深さが、音読に反映されていく。

やがて、ターニングポイントとなる発言が飛び出す。
「『記念写真だなあ』も楽しいと思います」
すると、すかさず、
「うん、ぼくも同じです」
「え?そうかななあ」
という声。
学級の中で矛盾が顕在化した瞬間であり、
見かけの問題から本当に考えたい問題に移行した瞬間でもある。

「記念写真」が楽しいとする子の考えはこうだ。
「家族一緒で楽しそう」
「記念になるからいい」
「戦争に行っても、まだ死ぬとは限らない」など。

一方、「記念写真」は楽しくないとする子の考えはこうだ。
「お父さんと最後になるから悲しい写真だ」
「戦争に行かないでほしいと思っているはず」
「卒業写真だって、もう会えないという感じがするよ」など。

このような考えと考えの激論が展開された。
時間は、とっくに過ぎていたのに、
子供たちの集中はとぎれることはなかった。

こういう時でも、3の1の子どもたちは、
単に、相手を言い負かすための主張はしない。
必ず、
「ぼくは、その意見もわかるけれど」とか
「私は、少しそういうのもあると思うけど」などと
相手の意見を尊重することを忘れない。
そうしながらも、
自分の考えをしっかりと話すことができることに
いつも感心させられている。

授業のあと、実習生たちは(ちょうど今は教育実習中)
こんな子どもたちの姿を目の当たりにして驚き、
「なんだか高校のときにしたディベートのようだった」
などと感想を語っていた。
一見、似ているのでそう思うのも無理はないのだが、
あの時の子供たちの姿は、
チープなディベートなんかではなく、
明らかに「対話」する子どもたちであったと
担任は思っている。

話をもとに戻す。
このたった一言の「記念写真」をめぐって
様々な読みが深まり、
作品の背景に対する理解も深まっていく中、
ある子がこう発言した。
「確かに、まだ死ぬとは限らない。だけど、次のページに
 『体の弱いお父さんまで』と書いてある。
 だから、生きて帰ってこられる可能性は低いと感じていたはず」
この発言をきっかけに、
再び、みんなは叙述に立ち戻っていく。

気になるその結論だが、
それは、各自の音読の中に、
それぞれが、
それぞれの思いで反映させていく。

「では、楽しいところやそうでないところもありそうですが、
 自分の思いでこの一場面を工夫して音読してみましょう」

その時、3の1のみんなが、
それぞれにどんな音読表現をしたかはご想像の通り。
こうして、
60分間にもおよぶ一場面の学習を終えた。

次は、二場面の書き込みへと進む。

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