骨は生きている

この日、4の1では保健の研究授業が行われた。
自分の体の成長を学ぶ単元である。

通常は、
これまでの自分の身長の伸びのデータから、
伸びる時期は人によって違うことや、
これから伸びる時期に入っていくということを知り、
だから、これからは、
「栄養」「睡眠」「運動」のバランスを保っていくことが大切で、
ついては、
自分の生活では、どのようなことができそうか考えよう、
という流れとなる。

今回の最大の提案点は、
「栄養」「睡眠」「運動」が大切だということは
3年生の学習でだいたい分かっている子どもたちの思考を
どう揺り動かすか、という点にある。
そこで、保健のN先生が用意したのは
なんと「ウシの大腿骨」だった。

実際のウシの大腿骨は大きく太いため、
標本として観察するにはよい。
まず骨のまわりについた肉をそぎ落とし、
煮沸したり、タンパク質除去液につけたり、
を繰り返して、その標本が完成したという。

授業前に、完成した標本を見せてもらった。
すると、そこには、
小さな穴が不自然にあいているのが分かる。
聞くと、それは血管が通っていた穴だという。
骨にも血管がある?
そういえば、骨で血液が作られると聞いたことがある。
骨は、まさに生きているのである。

さらによく見ると、
割れ目のような筋が入っている。
聞くと、それは骨が作られ伸びるところ=軟骨の跡だという。
骨が作られて伸びる?
たしかに、あの一見無機質に見える骨だって成長するはずだ。
やっぱり、
骨は、まさに生きているのである。

そんなウシの大腿骨に魅き込まれてしまっているうちに、
「骨には骨芽細胞というのがあって、
 それを元気にすることが大切。
 「栄養」「睡眠」「運動」は
 この細胞を活発にするのです」
というN先生の言葉がストンと胸に落ちてきた。

さらに、
「骨には、破骨細胞という、
 骨をこわす細胞もあります。
 実は、これも元気にしないといけないのです」
とN先生。
「なぜ?骨をこわす細胞を元気にするの?」と尋ねると、
「それは。。。。」
と優しく教えてくださったが、
そのことも、大きな納得とともに心に収まっていった。

目の前のウシの大腿骨に釘付けになっていたのが、
いつのまにか、
自分の体の中の骨を思い浮かべている自分がいた。
そして、
この自分の骨は、
まさに生きているんだ、
この自分の骨を、
この自分が大きく育てていかなければならない、
そんな気持ちになっていた。

もしかしたら、
子どもの思考の流れも
そうなのかもしれない。

このような授業構想をもとに、
この日、4の1では保健の研究授業が行われた。
自分の体の成長を学ぶ単元である。
今回の最大の提案点は、
「栄養」「睡眠」「運動」が大切だということは
3年生の学習でだいたい分かっている子どもたちの思考を
どう揺り動かすか、という点にある。

保健のN先生が用意した「ウシの大腿骨」から、子どもたちは、
「骨が生きている」
ということを実感した。…
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雪合戦

雪が降って、
雪が積もれば、
雪だるま作りや
かまくら作りや
雪合戦が楽しい。

雪の中にもかかわらず
外で元気に長休みや昼休みを過ごして
教室に戻ってくる子どもたちの頭からは、
熱気と汗で
ゆげがのぼっていることもある。

もちろん、そんなときばかりではない。
楽しかった雪合戦のはずが、
いつのまにか、
何かのきっかけで、
けんかになっていくこともあるようだ。

自分ばっかり集中攻撃される。。。。。
至近距離から、しかも、力一杯当てられる。。。。
当てたら「逆ギレ」される。。。。
違う雪合戦グループが入り込んできて勝手に当ててくる。。。。

こうなったら、
すでに雪合戦の体をなしていない。
けんかになるのもうなづける。

うなづけないのは、
なぜ、もう当てられている子をさらにまた当てるのか、
なぜ、至近距離なのに力を加減しないのか、
なぜ、「当てる」のが雪合戦なのに当てられたら「キレ」るのか、
なぜ、他のグループの人を予告なく当てるのか、である。

雪合戦における、このような状況を
ただ「やめなさい」というだけが
私たちの仕事ではない。
そのような行動になる背景を洞察し、
そもそも何が原因なのかを探る努力が
私たちに科せられた課題であろう。
そこから、
改善策や指導法が見えてくるはず。

それにはいろいろあるだろうが、
その一つは、
「もっと雪合戦をやりましょう」
ということか。…
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チョークを持たずに

昨日の算数の続き。
今日も例によって、チョークは持たない試み。

これまで、面積を求める方法として
4の1では次のような方法を練り上げてきた。
画面には、
昨日や一昨日までの学習の歩みが映し出される。
一瞬にして、
学習した内容や、それを発言した仲間の名前などの記憶が蘇ってくる。
ポイントとして記されている言葉は以下。
1 足し算法
2 引き算法
3 変形法
4 隅に寄せる法

今日は、それらを駆使して
ある図形の面積を求めた。
その図形とは、
ちょっと文字では言いにくいのだが、
長方形の中に、縦と横に2本の道がとおっているような形。
スエーデンの国旗のような模様である。

これも、たったボタン一つの操作で画面に登場してしまう。
さっそく、問題に向かう。

このたぐいの問題。
普通なら、
左上の長方形、右上の長方形
左下の長方形、右下の長方形の合計で求めたくなる。
もちろん、それでも何の間違いもない。
ただ、ちょっと面倒である。
面倒であるということは、
計算ミスなどにつながるリスクが高くなる。
できれば、ものごとを
より単純に、
より正確に、
より速く処理できるようにと考えたいもの。

では、今日の4の1はどうだったか。

これまで、
冒頭に述べたような複数の方法で求積してきた4の1の仲間たちは、
すぐに、これは「4 隅に寄せる法」だと、ピンときた。
子どもたちが、
代わる代わる指名され、
画面の前に出てきては、「隅に寄せる法」の考え進め方を
とても上手に説明した。
その説明に合わせて、
画面の図形もリアルにスライドした。
隅にスライドしていったあとには、
すっきりとした長方形ができあがっている。
これなら、あとは簡単!できる!わかる!納得!
さすがは、電子化した黒板だった。

しかし、ここで配布したのは、
一枚の方眼画用紙と、道の部分となる2本の方眼画用紙。
子どもたちは、
自分のノートの上で、
実際に道の部分をスライドさせたり、
片方に寄せて動かしてみたりした。
また、
道が交差している場合の面積と、
道を片方に寄せた場合の面積とが、
同じ面積になるということを、
実際にマスを数えて確かめもした。

「いっしょです」
「同じになりました」
あちこちから、そんな声が聞こえてきた。

実は、今日の授業で大切にしたかったことはこれ。
実際に手を動かし、
実際に指で数えて、
実際に半具体物を操作しながら
自分の概念を作っていくという過程。

どちらも、
ほとんどチョークを持たない授業
であることは同じだけれど。

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黒板の電子化

黒板はどこまで電子化できるか。

好む、好まないにかかわらず、
この命題に少しはたちむかっていく時代が来た。

今日の算数「面積」の学習は、
あえて、
これまで慣れ親しんできたチョークを手放し、
大型テレビモニターとパソコンというスタイルで授業。

ある一つの図形の面積を求めるにも、
補助線で分割して、あとで足して求積する方法や、
大きな長方形から、欠損部分を差し引いて求積する方法や、
共通部分に目をつけて、ある部分を切り取って他の部分に結合させ、
より単純な長方形に変形させて求積する方法などがある。
そんな多様な考え方を引き出し、育んでいくことが
この単元のねらいの一つでもある。

ICTの分野を生かせば、
図形の変形や、移動、補助線のイメージなどが
視覚的に見えやすくなるだろうと思われた。

では、実際の授業ではどうだったか。

子どもたちは、
「なんだか未来の授業みたい」
「好きな色に変えられておもしろい」
「意見を言うと、自分の名前を出してもらえるのがうれしい」
「でも、もしかして、ぼくらは実験だいになってるのかな?」
などと第一印象を語っていた。

やがて、授業が進んでいくと、
「そこに線を引いて分けるとね。。。」
「ぼくはこっちに線を引いて分けたよ。。。」
「その形をそのまま右にスライドさせたらね。。。」
とテレビの画面を指差しながら
新しい発想を見つけることを楽しんだり、
自分の考えを説明したりしていく姿が現れてきた。

こうして、求積に対する理解も深まっていった、ようだった。
これは、黒板の電子化のひとつの効果、のようだった。

こうして、今日は、2時間の試みを終えた。
終えてみて、印象に残っている姿がある。
それは、
友達の発言だけでは???だった姿が、
その発言に合わせるように画面の図形を操作することで、
「は〜ん、そういうことか。」
「わかった、わかった。いいねえ、それ。」
「ぼくも、そういうこと、考えとった。」
「それとよく似たやり方があるよ。」
「もっと簡単にできるよ。」
「それなら、こっちをこうしてもできるよ。」
などとつながっていく姿である。
そんな瞬間があちこちであったのである。

これは、まさに、「対話する子ども」の姿である。
互いのよさを知り、
自らを謙虚に振り返り、
不完全性を自覚し、
それまでになかった新たな価値あるものを生み出す「対話する子ども」。

今日の授業の主人公は、
やはり、子どもたち一人一人だったのだ。
ICTを活用した授業は、
今後、さらに盛んになっていくことだろうが、
その授業の中では、
「対話する子ども」がその前提として育っていなければならない。

もしも、そうでなかったならば、
電子化された黒板による授業は、
とたんに、
首尾よく指導内容を教えるための授業になりさがってしまうのである。

板書については、
これまで多くの格言が残されてきた。
「子どもの思考を助けるものこそが生きた板書である」
「よりよい板書の仕方、それは教師の永遠の課題」
「黒板は、子どもに開放しよう」
「文字は楷書で丁寧に、作図はものさしを使って」
「書く内容、書く大きさ、書く速さ、書く色、書く間、すべてに意味あり」
「たかが板書、されど板書」

まだ電子化に慣れない担任の今日の授業は、
子どもの思考を助ける授業だったというよりは、
むしろ、
互いに対話しながら考えを深めていこうとする力を備えた
子どもたちに助けられた授業だったと言える。

以下、メモ。
▲教室のカーテンを閉めないと画面が反射して見づらい。
▲結果、どことなくうすぐらい教室での授業になってしまう。
▲子どもの発言、発想のテンポとややずれる。
▲子どもの反応を注視できない。
▲45分も画面を見ていると子どもの目が疲れる。

○子ども自身が画面の前で説明することが上手になる。
○考えを動的に表現できる。
○考えを動的に理解できる。
○イメージや感覚に響くものがある。
○過去の授業の記録をすぐに呼び出せる。
○既習事項の掲示物の代わりに表示しておく。

*従来の黒板、電子化された黒板を使い分ける。
*具体物の操作、抽象化された図等を使い分ける。
*教科や単元の特性に応じて使い分ける。
*動画等のコンテンツを挿入するなど変化をつける。
*板書をプリントアウトして児童に配布する。
*あらかじめ練習問題、ドリルなどの仕込みをして時間を短縮する。…
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百人一首

今年、遅ればせながら
百人一首(そのうちの20首)に取り組む。

この20首は、
自分が教員になったころ、
先輩教員からの指南を受け、
そこに自分の勝手な思いを付け加えて選んだもの。
一応の基準は。。。
教科書や読み物によく引用されているもの、
作者が歴史的にも有名な人物であるもの、
どことなく「音」がおもしろいもの、
という印象が強いもの、
といったところで、
明確な基準があるわけではない。

以来、2〜3首の入れ替えはあるものの、
これまで担任させていただいた
ほぼすべてのクラスで
期間限定で取り組んできた。

百人一首は、別に教科書に載っているわけではない。
何年生から取り組むことになっているというわけでもない。
ただ、
秋の田の かりほの庵の〜(天智天皇)
春すぎて 夏来にけらし〜(持統天皇)
これやこの 行くも帰るも〜(蝉丸)
人はいさ 心も知らず〜(紀貫之)
などなどは、
それを一度も触れずして
小学校の教育を終えてもよいのだろうかという
思いを抱かせるほどの何かがある。

今や、
ワードやエクセルなどの使い方を身につけて
社会に送り出すことが
高校や大学などの高等機関の
もうひとつの「見えざるカリキュラム」のようなものに
なっているが、
その使い方ですら、
数年もたてば、変わっていってしまうものがほとんど。

その点、
百人一首に親しむ体験は
数百年たってもおそらく色あせることはない。

明日も10分でも、15分でも
時間を見つけて対戦を楽しみたい。
近頃の自勉ノートには、
百人一首について調べたり、
それを覚えようと繰り返し書いたりしたものも
見られるようになってきた。…
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