2の2編 自動販売機事件

続、2の2の生活科。
単元は街探検。

前回は2の2で渦巻いた「ケーキ屋事件」の話題。
実は、その街探検の直後、
再び事件が起きていた。
それは「自動販売機事件」。

教室に戻って一段落してから、
こんどは、学校の向かいにある文房具やさんの周辺が
クイズに登場した。

「文房具やさんの横に自動販売機があるの」
「その横に公衆電話もあるよ」
「そして、その横がポスト」
「それから、その横がバス停」
子どもたちの発言にしたがって
絵地図に板書していく授業者。

すると、
「先生、違います。自動販売機はこっち側です」とある子。
「え、違うよ。それで合っているよ」と別の子。
「こっちだよ。」
「あっちだよ。」
とたんに自動販売機事件が巻き起こった。

そして、
「先生、行って確かめてこようよ」
という声が再び教室に響いた。

それからみんなは隊列を作って出かけていった。
目的はひとつ。
「自動販売機は右にあるか、左にあるか」をこの目で確かめること。
出かけて1分後、
目の前に自動販売機が立っているのをみんなで確認した。
それも、2つ。
なんと、自動販売機は、右にも、左にもあったのだ。
なんと、どちらの立場の子も正解だったのだ。
意外な?結末にみんな納得して教室に戻った。
実際に行って見てみると予期せぬ結果がまっていることもあるんだな、
という副産物も得ることができた。

生活科に限らず、他の教科等でも、とりわけ社会科などでは、
現地に赴いて事実をつかんでくることが鉄則である。
実際、近頃の社会科の教科書は
はじめから座学だけではできないような編集になっている。
だから、
学校から離れた場所であるとか、
工場見学のような相手がある場合は別として、
学校の周辺で確かめられるようなことであるならば、
安全に留意しながら
できる限り、自分の手や足を使って調べなければならないのである。

隣のクラスと足並みをそろえて、とか、
自分のクラスだけ勇み足にならぬように、とか、
それを妨げる理由はいくらでもあるようだが、
幸い、こちらにはそんな風土はない。
学びのフットワークは軽い。

「行って、確かめたい」「先生、行って見てこよう」
そういう内面の高まりが、子どもの学びを確かなものにするということを
実践を重ねた諸先輩教師は知っていたからであろう。…
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2の2編 ケーキ屋事件

今日の2の2の生活科。
単元は街探検。

前々時は、屋上から街を眺めた。
前時は、眺めた街をもとに「街探検クイズ」を作った。
本時は、そのクイズ大会。

言うまでもないが、
クイズに正解することがねらいではない。
もっと言うと、
「大会」を作り上げることそのものもねらいではない。
もっと言うと、
「大会」を作り上げることそのものは生活科のねらいになり得る。
もっと言うと、
あえて、それはねらいではない、という決意で臨んだということである。

その具体を、
生活科らしく、
子どもの姿で記しておきたい。

クイズが始まって2問目のこと。
「この前を通ると、おかしが並んでいていいにおいがします。どこでしょう。」
「はい!」 「はい!」 「はい!」
「Rケーキ屋です」
「正解です。Rケーキ屋はここに(黒板の絵地図を指しながら)あります。」
「え?」「ちがうよ!」「合っているよ!」「ちがうよ!」
「Rケーキ屋は、ここにもあるけど、そっちにもあるんだよ。」
「え?Rケーキ屋は、本当は2つあるの!?」
「あるよ!」 「ないよ!」
「わあ、ケーキ屋事件です!!」

こうして「ケーキ屋事件」が2の2に渦巻いた。

そして、
「先生、行って確かめてこようよ」
という声が教室に響いた。

それからみんなは隊列を作って
本当の街探検へと出かけていった。
目的はひとつ。
「Rケーキ屋は本当に2つあるか」をこの目で確かめること。
街に出かけて1分後、
まず、1つめのRケーキ屋をみんなで確認。
それから、問題の絵地図のポイントまで歩くこと約5分。
そこにはRケーキ屋はなかった。
あったのは、
ケーキ屋の雰囲気が漂う美容院だった。
みんなはその結末に妙に納得していた。

本時のクイズ大会。
そのねらいは、
クイズに正解することでも、
「大会」を作り上げることそのものでもない。
自ら問いをもち、
自ら解決し、
未知を既知としていくことの喜びを味わうことができること、
それがねらいだった。
そのことを往年の先輩教師たちは
子ども主体による問題解決的な学習と呼んだ。

生活科は、
そんな先輩教師たちの後に生まれた教科ではあるが、
学びの本質は何も変わらない。

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5の1編 3粒という条件制御

再び、5年理科「種子の発芽」の学習でのこと。

本単元は、
どの種子も、
ある条件が整えさえすれば、
一気に命を躍動させることができる、
その神秘に子どもたちが触れる学習である、
とは、前回に述べた通り。

と、同時に、
「条件制御」という科学的な手続きについて学ぶのが
本単元のもう一つの側面でもある。
ただ、それは、
どちらかと言えば定型的で習得的な時間になりがちで、
確かに大事なことの一つではあるが、
創造的で科学の魅力を味わうことができる授業の中心には
なりえない。

ーーーーーーーーーーーーーーーと思っていた。

それが、
今日の5の1のみんなとの授業によって
見直さざるを得なくなってきた。

前回の授業で、子どもたちは、
固くて芽を出しそうもない種子が、
水を与えられただけで、
みるみるうちに大きくなり、
あちこちにしわが刻まれ、
まさに命を吹き返したように動き出す種子を
目の前で見て感動していた。
その時間の最後に、
「大賀はす」のことを紹介し、
その余韻に浸った。

そして、今日。
いよいよ、発芽の条件について実験していく日。
「水」「空気」「温度」(その他「栄養」「土」など)について、
調べたい条件だけを変えて、
それ以外の条件はそろえて実験をしていく、という日。

授業者は、前回の授業を思い出しながら、
「大賀博士は、3つのうちの1つの種子の発芽に成功したのでした。
 みなさんも、大賀博士のように、これから発芽をさせましょう。」
と投げかけた。

すると子どもたちは、さかんに、
「日光に当てた方がいいのでは」
「栄養もやったほうがいいよ」
「空気もいるよね」
「土はいらないのかな」
と「発芽の条件」を次々と挙げていった。

ここで、ふつう、授業者は
「では、みんなが挙げたこれらの条件を一つ一つ確かめていこう。
 確かめたい条件以外は変えずに。。。。」
というところである。

ところが、この一言を切り出したのは、
なんと5の1の子どもたちだった。

「先生、大賀博士は、3粒とも同じように育てたのかな」
「きっと3つ別々の条件にして、その中の1つが発芽したのではないかな」
「全部同じにしたら、3粒とも失敗する可能性もあるよ」
「だから、ぼくたちもそうしようよ、一つ一つ条件を変えて。」

5の1の子どもたちは
大賀博士が抱いたと思われる太古と科学へのロマンを、
確かに感じとっていたようだった。
そして、
これから取り組むことになる実験とその結果について
わくわくしていたようだった。

そんな子どもたちの姿と発言を目の当たりにしたとき、
「条件制御」という、
どちらかと言えば定型的で習得的な時間になりがちな学習でも、
極めて創造的で科学の魅力に満ちた時間に
なりえるのではないか、と思った。

もしかしたら、
子どもたちにとって本当に大切なのは、
「水」「空気」「温度」という条件などではなく、
むしろ、
「たった3粒しかない」という条件の方なのかもしれない。…
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2の2編 恒例のお花見

附属小恒例のお花見。
開花までちょっと早いが、
この陽気に誘われるようにして
1年、2年、6年が
呉羽山へと出かけていった。

2年生の出発時、
担任の先生がこうおっしゃった。
「桜は咲いているかなあ、どうかなあ」
すると子どもたちは
「咲いているよ」
「まだ咲いていないよ」
と別々の反応を返してきた。
その担任の先生はそれを受けて、
「では、それを確かめてこようね」
と投げかけた。

それから約1時間ほどのお花見から戻ってきて、
再び、
最初の問いに戻った。
「桜は咲いていたかな、どうだったかな」
すると子どもたちはこういう反応を返してきた。

「う〜ん、少しだけ、咲いていたよ」
「そう、もう少しで咲きそうだったよ」
「つぼみなら、このくらい(手で膨らみを作りながら)になっていたよ」

子どもたちの、この見事な話しっぷりに
思わず感嘆の声を挙げてしまった。

「咲いていたかどうか」という問いに対し、
YES=「咲いていた」
NO =「咲いていない」
のどちらでもない解でもって答えてきたのである。
しかも、
その解の方が、
事実を正確にとらえた「正解」なのである。
そんな新たな解を導き出した2年生の子どもたちだった。

この一連のできごとには、
実は、
授業の構成ととてもよく似ている所がある。

まず、最初の課題。
この最初の課題で
「咲いている」「咲いていない」の対立の構図を作りだすこと。
こうして、子どもの心に火をつけていく。
最初は興味の薄かった子も徐々に渦の中に入ってこれるようにする。

次に、ものとかかわる場。
課題の答えはすぐに与えず、
自分たちで確かめる場を作ること。
今の場合は「お花見に行く」ということになるが、
授業であれば「実際に試す」とか「書く」とか「調べる」といった活動がここに当たる。
この時、なぜするのか、という目的意識が大切で、
それがあいまいだと、俗に
活動あって学びなし、と言われる状態となる。

最後に、答えの導き方。
AかBかと問うて、
その答えはAでもBでもない、Cであること。
もしもAかBかと問うて、
結局、答えがAかBのどちらかだったときというのは、
それはそれでよいのかもしれないけれど、
なんとなく物足りなさが残ってしまうのである。
そうではなくて、
AでもBでもない、Cが、
子どもたちの手によって生み出されたときの授業には、
学びがいという充実感があふれている。
しかも、子どもたちにとってそのCは、
どんな正解よりもリアリティがあるのである。

「学ぶ喜びというのは、
 本来、そういうものなんだ。」

教え込みがなぜいけない?という大人の質問に対して、
子どもたちが、そう答える声が聞こえてきそうだ。

やはり私たちの務めは、
子どもたちが日々新しいものに出会っていく授業を、
(毎日は無理でも)ひとつでも多く創っていくことか。…
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5の1編 命のカプセル

5年理科「種子の発芽」の学習。

今日は、このクラスで初めての理科の授業だった。
まずは、子どもたちに、
小豆と大豆を
ほぼ同時に配る。
(ここで2種類の種子を配ることがミソ。
 1つでは見えないこと、
 つい見過ごしてしまうことも
 2つあることで見えてくるということがあるからだ。
 それを、普通「比較」という。)

すると、
「すごく固いね」
「割ってみてもいい?」
「どこから芽が出るのかな」
「どちらの種子にも白い所があるから、きっとここだよ」
「大きさが違うのは、中の栄養の量が違うのかな」
などという声が挙がる。

すかさず、
スケッチタイムをとる。
このときも、
ノートの左右に「比較」しながら書いていく。

ある程度書き上げたところで、
もう一つ、種子を取り出す。
その種子は、
これまで見たこともないくらい大きいし、
まるでプラスチックの模型のようにつるつるしているし、
固くてカチカチだし、
ここから芽が出てくるなんてとても思えない、という種子。

そこに
「この種子、本物かなあ。。。作り物かなあ。。。」
とつぶやいてみる。

「本物だよ」
「でもこんなに固いんだよ」
「本物だったら、どこか柔らかいところがあるのでは?」

「そうだ、先生、本物かどうか見分ける方法がある。
 水に入れてみて、柔らかくなれば本物。
 水に入れてみて、固いままなら作り物。」

こうして、
「種子を目覚めさせよう実験」がスタートした。

教科書には「大賀蓮」の読み物が載っているが、
まさに、どの種子も命のカプセルだ。
ある条件が整えさえすれば、
種子の中の命が一気に目覚めるのは、
本当に神秘的な現象である。
本単元は、
その神秘に子どもたちが触れる学習でもある。…
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