クライマックス

国語「一つの花」のクライマックス。
今日は、いよいよ、
出征する父がゆみ子に一輪のコスモスを手渡す場面。

この場面でのお決まりの問いは、
「父はどんな気持ちでゆみ子にコスモスを手渡したのだろうか」
というようなものであろう。

その問いの向こうにある「ねらい」は、例えば、
単に、ぐずるゆみ子を泣き止ませるためではなくて、
最後ぐらいは笑顔を見せてほしい、笑顔で別れたいという切ない気持ち、だとか
何も満足に与えることができなかった父ができる精一杯のことの表れ、だとか
ゆみ子の幸せを願う気持ちを一輪のコスモスに託した父の姿、だとか
今は一輪分の幸せだけれど、それを育てることで無数の幸せになること、だとか
といったものである。

今日の授業でも、そのねらいはおおよそそのあたりにあった。
ただ、
その問い方はやや違う。

国語に限らず、どんな授業でも、
そこには子どもにとっての矛盾が大切である。
矛盾を感じたとき(矛盾が明らかになってきたとき)、
子どもは、自ら、その矛盾を矛盾でなくそうと動き出す。
「主体性」というのはそういうときに発揮されることが多い。

では、この場面での矛盾は何か。

一輪のコスモスを手渡すちょっと前にこんな叙述がある。
「母さん、ぜんぶおやりよ、おにぎりを。」
最期を覚悟してお別れする駅で、ぐずるゆみ子を見て父が言った言葉である。

ここで父は、
「ぜんぶ」おやりよ、といっているのに、
その直後には、
コスモスを「一輪」しか手渡していないのである。
ましてや、
「配給」の、とても大事なお米でこしらえた「おにぎり」は「ぜんぶ」で、
ホームの端っこで、わすれさられたように咲いていた「コスモス」は「一輪」だけ。
子どもにとって、これほど矛盾に満ちたことはない、はずである。

こう踏んで授業を作ってみることにした。

まずは、「ぜんぶおやりよ、おにぎりを」の場面での
父にスポットを当てた。
子「泣き顔を見たくなった」
子「お母さんも泣き顔を見せたくなかった」
子「『一つだけちょうだい』と言っているのがかわいそうに思えた」
子「ゆみ子を喜ばせたかった」
子「笑顔が見たかった」
などと言う意見が出てきた。
ここで「ぜんぶ」あげてしまってもかまわない、という状況を
みんなが共有できた、と判断。

そして、担任の出場。
「ぜんぶ」あげてもいい、そうだねえ。
だったら、コスモスも「ぜんぶ」あげてもいいのにねえ。

すかさず、子どもたちの手が勢いよく挙った。
子「そこには一輪しかなかったんだよ」
子「一輪あれば泣き止むからだよ」
子「その一輪を大事にしてほしかったのではないかなあ」
子「きっと『一輪』というのに意味があるのだと思う。今はまだわからないけど。。。」
子「ぼく、わかる!『わすれさられたコスモス』だから、なんだかお父さんみたい」
子「冬も耐え抜いてがんばってきたコスモスだから、ゆみ子もがんばって!っていうのかな」
子「種だって残すから、あとでどんどん増える楽しみもある」
子「そうか!『一輪』の意味がわかったよ」
 「ぼくは、お父さんをずっとわすれないでってことだと思う」
子「わたしは、コスモスのように成長してねということだと思う」
子「ぼくは、次は君ががんばる番だよ、という意味だと思う」
子「『ひとつだけちょうだい』とか、数が大事なんじゃなくて、
  心のこもった物に感動するという気持ちをもってほしかったのだと思う」
一つの意見が、また次の意見を呼び、
新しい考えが浮かんだ子たちが次々といすから立ち上がり、
まさしく、4の1には、
意見の花が一面に咲き誇っていったのである。

その時、担任は、
ある先輩教員がこういっていたのを思い出していた。
対立の構図で深まる授業もあるけれど、
付け足し、付け足しで深まる授業もある、と。

深まりとは、
問いの向こうにあった「ねらい」、例えば、
最後ぐらいは笑顔を見せてほしい、笑顔で別れたいという切ない気持ち、だとか
何も満足に与えることができなかった父ができる精一杯のことの表れ、だとか
ゆみ子の幸せを願う気持ちを一輪のコスモスに託した父の姿、だとか
今は一輪分の幸せだけれど、それを育てることで無数の幸せになること、だとか
といったものを通過し、
さらに、その奥にある
「一つの」の意味するところを見抜き、
それが「花」でなければならなかったことを射抜いていった深まりのことである。

思えば、この題材に入った日、
教生先生とみんなとで「一つの花」の題名読みをして学習をスタートさせた。
その時と、今とでは、
作品の読み方がきっと違ってきているだろう。

そして、もう一つは、
4の1みんなの深まりである。
学習は一人一人に成立するものではあるけれど、
学級という集団のもつ力は決して無視できないのである。
一人では決してここまでたどりつけなかっただろうとも思う。

もちろん、担任だって、たったひとりで、
ここまで教材を分析できるような力などない。
子どもたちの読みに感服したのである。

今日は、
「おにぎり」はぜんぶあげてもちっとも惜しくないのに、
「コスモス」は一輪しかあげない、という
この矛盾に満ちた父の姿が、
子どもにとってかけがえのない教材となった。

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パワスポ

4の1古い道具博物館が開館した。
場所は、4の1前ワークスペース。
そこにならぶ古い道具たちの一つ一つが
今、絶大なる存在感を放っている。

そのそばに立つと、
当時の人々の細やかな息づかいが感じられるととともに、
数々の優れた知恵にも気づかされる。

そっと手にとると、
日々のくらしの厳しさを知ることができるとともに、
それにも負けないたくましさも伝わってくる。

じっと見つめていると、
その周辺で起こっていただろう日常の出来事までもが目に浮かぶとともに、
長年使い込んできたものへの愛着を再認識させられる。

4の1古い道具博物館。
年月を経てもなお、
今もこうして存在する古い道具たち。
そこに居るだけで、
その存在そのものへの感謝と畏敬の念が、
たちまち自分の体を包んでしまう。

自分にとってのパワースポットは
もしかしたら、ここなのかも。

追記
その力に惹き寄せられるように、
今日の昼休みにはたくさんの友達が来館してくれた。
チケットは売り切れ、
パンフレットは増刷し、
館内には人の波が押し寄せた。
4の1のみんなもそれぞれの持ち場で大忙し。
「先生、大繁盛です」
「先生、こんなに来てくれてうれしいです」
「先生、人が多すぎて肝心の道具が見学できません」

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民族資料館見学

社会科「古い道具と昔のくらし」の学習では、
単に、いろいろある古い道具を学ぶわけじゃない。
そうではないのだが、
その一環として、
午後から、民俗資料館へ見学に出かけた。
資料館には古い道具が所狭しと並んでいた。

子どもたちが足を止めたものは多種多様で、
いろりやたんすだったり、
冷蔵庫やミシンだったり、
ランプやアイロンだったり、
そろばんやものさしだったり、
その他、
当時の農機具や、
こたつなどの暖房器具などだったりした。

興味を引きつけるものの魅力がすごいのか、
興味のアンテナを張っているみんながすごいのか、
見学の態度は真剣そのものだった。

資料館は当時の民家を再現したものだった。
一歩足を踏み入れると、
残暑厳しい日中だというのに、
ひんやりとした空気が気持ちいい。
目に映る調度品は、どれも、
当時の人々のくらしのにおいがしていた。
しばらくそこにたたずんでいただけだったのに、
なんだか、
タイムマシンにのって
昭和の時代にタイムスリップしてしまったような錯覚になった。
そして、自分がまだ幼い頃の、
豆炭炬燵に足を忍ばせて暖をとっていた家族の姿や
田植えや稲刈りの手伝いに出ていた時の光景などが
目の前に浮かんでは消えていった。
祖父母に迷惑をかけたできごとや
兄弟喧嘩のことなど、
これまで何十年、これっぽっちも思い出した事のないような事まで
一気に押し寄せてきたような気がして、
鼻の奥の方がツンとした。

そのうちに、
壁にかけてあった振り子時計がボーン、ボーンと鳴った。
そういえば、
家に2台あった振り子時計のゼンマイをまく仕事は自分だった。
そのままでは時計に手が届かないので、
椅子をもってきてその上にのり、
時計の扉をあけて、その横につけてあるネジをとり、
穴にさしこんでぐるぐる回す。
途中、手がしびれてくるので反対の手に持ち替えたりした。
穴は二つあった。
長い針用のネジと短い針用のネジだと思っていたが、本当はどうか。
無事、ネジを巻き終えると、
針を正しい時刻に合わせてからふたをしめ、
最後は、時計が傾いていないか確かめる。
いすを降りてちょっと離れて眺めてみて、
振り子の動きが左右対称になっていれば、作業終了だった。

あれから、時は、どのくらい過ぎたのだろうか。
それから、生活は、どうなってきたのだろうか。
これから、自分は、何を考えていくのだろうか。

古い道具が語るもの。
その声に耳を傾けるのが、
社会科「古い道具と昔のくらし」の学習なのだろうと思う。…
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落葉松

国語「手と心で読む」のつづきのつづき

授業参観のあとの授業では、
このような授業に取り組んでみた。

主な発問はこのようにしてみた。
「お母さんは、なぜ北原白秋さんの詩『落葉松』を選んだのか」

子どもたちは、直感で次のように応えた。
本当は八題目(八つの連)まであるらしいから、そこまでがんばらせたかったから。
読み進める楽しみがあるから。
作者の北原白秋さんも、もしかしたら、同じ境遇だったのかもしれない。

これらは直感とはいえ、
極めてたくましい想像力であり、
そう考えてみるだけで、この資料の面白さをより豊かにしてくれる気がする。

そこで、
北原白秋さんの基礎的な資料と、
『落葉松』の全文のコピーを配布した。

 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
 からまつの林を出でて、
 からまつの林に入りぬ。
 からまつの林に入りて、
 また細く道はつづけり。

      三
 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨のかかる道なり。
 山風のかよふ道なり。

      四
 からまつの林の道は、
 われのみか、ひともかよひぬ。
 ほそぼそと通ふ道なり。
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 からまつの林を過ぎて、
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 からまつはさびしかりけり、
 からまつとささやきにけり。

      六
 からまつの林を出でて、
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 からまつのまたそのうへに。

      七
 からまつの林の雨は
 さびしけどいよよしづけし。
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 世の中よ、あはれなりけり。
 常なれどうれしかりけり。
 山川に山がはの音、
 からまつにからまつのかぜ。

この『落葉松』、
4年生が読むには表記自体なじみのうすいものであり、
内容もかなり難解である。
それでも、
子どもたちは言葉に対する感覚を最大限に研ぎすませて考えた。
そのいくつかを記録しておく。

「また細く道はつづけり」だから、
人生は先が長いよ、と言いたかったんだ。

「わが通る道はありけり」だから、
目が見えないからこそ見えるものがある、ということだ。

「ほそぼそと通ふ道なり」だから、
少しずつ挽回するという気持ちだ。

「さびしかりけり」で始まって「うれしかりけり」で終わっているから、
最初は寂しくて後で楽しくなる大島さんのことと同じだ。

「浅間嶺」と書いてあって山の頂上に登る感じがするから、
その頂上には明るい光が待っている感じがする。

そうだね。ぼくも浅間嶺を超えろって感じがする。

最後の「からまつにはからまつのかぜ」と書いてあるから、
それは、大島さんにとっての「追い風」になると思う。

こうして、
「落葉松」という詩そのものに込められた意味や
「落葉松」という詩を送った母の気持ちや
「落葉松」という詩を受け取った筆者の気持ちなどを
多様に読みすすめていったのである。
国語の時間は、あっと言う間に過ぎていった。
子どもたちの意見は、
どれもまぶしいくらいに光っていた。

この単元は、
本来ならば、
「調べて発表しよう」という、カテゴリーでいうならば「話す 聞く」の単元であり、
このような授業展開は、
イレギュラーであると言わざるを得ない。
明らかに、北原白秋さんの詩「落葉松」を読み深めるような題材ではないのである。
ましてや、
上記のように
「落葉松」の主題となっているところと、
本資料の文脈とを
重ね合わせて読み深めていくというような単元ではない。
しかし、
本資料の筆者の思いや、登場人物としての母親の心情、
その両者の心の通い合い、そこにおける「落葉松」のもつ意味、
そして、その後の人生、などという点を鑑みると、
これを、
「調べて発表しよう」という内容で扱うには、
あまりにも表面的すぎる、とも思えてしまうのも事実である。
いや、むしろ、
これは「話す 聞く」のカテゴリーで扱うべきではないのではないか、
とさえ思えてくるのである。…
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こんな思い出

国語「手と心で読む」のつづき

脇役である担任の挑戦とは、こうだった。

資料「手と心で読む」の2段落目はたった一行である。
この一行で、授業を作ってみた。
その一行とはこうだ。

「点字について、わたしには、こんな思い出があります。」

担任はみんなに、「こんな思い出」とはどんな思い出だろう、と問うた。
この解は、多様に存在する。
例えば、
十九さいのとき、急に目を悪くして入院した、という思い出。
もう回復は望めないと分かった、という思い出。
点字を覚える気になれなかった、という思い出。
新聞の見出しくらいは読んでいた、という思い出。
心のふるさとを失うように思えた、という思い出。
そんなわたしに、点字を覚えるように働きかけたのは母だった、という思い出。
「いっしょに勉強してみようよ。」と言われた思い出。
それは北原白秋の詩だった、という思い出。
かじかむ指をあたためあたため読んだ、という思い出。
ようやく一編の詩を読んだ、という思い出。
自分で自由に使える文字をもつことが、どんなに楽しいか、という思い出。
それがどんなに大切であるか、という思い出。
読む速さも、練習とともにどんどんました、という思い出。
点字の図書館から次々に本を借りて読んだ、という思い出。
読みたい本がまだ点字になっていないのが、もどかしく感じられた、という思い出。

子どもたちは、すぐに勢いよく反応した。
「3段落にあるよ。」
「4段落にもあるよ。」
「7段落にもあるよ。」
視点は、3段落から7段落まで一気に広がった。

「悲しい思い出だ」
「楽しい思い出もある」
思い出の類型も始まった。

まず、悲しい思い出として出てきた意見はこうだった。
十九さいのとき、急に目を悪くして入院したことは悲しい思い出だ。
もう回復は望めないと分かったときも悲しかっただろう。
心のふるさとを失うように思えたくらい悲しかった。など。
とりわけ、「心のふるさとを失う」ということにみんなの意見が集中した。
そこには、
もう戻れない悲しさ。。。
これまでの思い出も全部なくなってしまう悲しさ。。。
目の見えない別の世界にいってしまう悲しさ。。。
などがあるという意見があった。
子どもたちは、筆者の大島さんの心情や立場と一体化して、その表現を読み深めていた。

次に、楽しい思い出だという意見が出てきた。
普通、目が見えなくなるという状況は、
どう考えても悲しさにあふれている。
「楽しい」ということ自体、矛盾に満ちている。
その一見矛盾するようなことを矛盾でなくそうとして、
子どもたちは思考を活性化させていった。
出てきた意見はこうだった。
自分で自由に使える文字をもつことが、どんなに楽しいか、と実際に書いてある。
それがどんなに大切であるか、ということを初めて知っている。
読む速さも、練習とともにどんどんましていった喜びがある。
読みたい本がまだ点字になっていないのが、もどかしく感じられたくらいだった。など。
中には、この「もどかしく」と言葉の解釈に立ち止まった子がいた。
「辞書で調べると『もどかしく』というのはイライラするとあった。
 この場合のイライラは、いいイライラだ。」というのである。
小さな一言の叙述に立ち止まったり、
言葉のもつニュアンスを感じ取ったりして、
言語感覚が研ぎすまされていくのが伝わってきた。

ここで、
2段落にある「思い出」という言葉には、
「悲しい思い出」と「楽しい思い出」が両方混在している、
ということがみんなの手によって導きだされていったのである。

そうだとしたら、いったい、
どこで「悲しい思い出」が「楽しい思い出」に変わったのか?
新たな問いが生まれるところである。
授業に「深まり」というのがあるとすれば、
それは実はここからなのだろう。

そこから子どもたちの思考は、思い出の変わり目に向けられていった。
子どもたちの意見はこうだった。
母が、点字を覚えるように働きかけてくれたから変わったのではないか。
母に、「いっしょに勉強してみようよ。」と言われて気持ちが変わってきたのではないか。
北原白秋さんの詩と出会ったときではないか。
大島さんが、かじかむ指をあたためあたため読んだ、というところに変化がわかるのではないか。
ようやく一編の詩を読んだときの達成感が、気持ちの変化を生んだのではないか。
とりわけ、圧巻だったのは、
ここに新たな比較検討の視点を子どもたちが引き出したことだった。
つまり、
変化の契機は「母親の存在」なのか「自分自身の達成感」なのか
という葛藤である。

この葛藤は、大人である私たちにとっても悩ましい部分ではなかろうか。
授業をしながら、私まで思わず真剣に考えてしまった。

この壁にも子どもたちは全力で力を注いできた。
母が「自分の手で打ってきた点字」だったからこそ心が動いたのではないか、とか、
大島さんが「ようやく一編の詩を」読むことができたからこそ楽しくなったのではないか、などと
それぞれの考えの根拠を語ったのである。
途中、
4段落の頭に「そんなわたしに」とあるから、そこから気分が変わった感じがする、
と音読を交えて語る子もいた。
その意見に、
みんなも音読で追体験してみたが、確かに、その部分ではそんな感じがするのである。

資料「手と心で読む」の2段落目の、
「点字について、わたしには、こんな思い出があります。」
というたった一行から始まった授業。
この日の学習をこうまとめた子がいた。
「(思い出というのは)絶望が希望へと変わった、ということだと思う」”…
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骨太

台風が接近する中の授業参観では、
国語の授業の様子を見ていただいた。
主役である一人一人の子どもたちが、
持てる力を発揮してより肯定感を味わったり、
これまで気づかなかったような仲間の考えに心を揺さぶられたり、
自分の考えを謙虚に見直してより深みへと進んで行ったりすることが
できただろうか。
授業の主役になる、ということは、
目立つとか、ヒーロー(ヒロイン)になる、ということでなく、
学習の主体者になる、ということである。
一人一人にとって学びのある時間になることを担任としては願っている。

さて、脇役である担任は、
この日、何を考えていたか。
(以下、脇役の考えだから独り言のようなもの)

この日の題材(資料)は「目と心で読む」。
ジャンルで言えば「説明文」だろう。
単元全体としては、「調べて発表しよう〜伝え合う〜」という教材である。
この授業をするにあたり、
ここ数日の間考えていたことは、
一言で言うと、
この題材(資料)を物語的に展開できないか、ということである。

ここ数年、
国語の教科書の内容にはある変化が見られているのはご存知の通り。
物語文が減り、
その分、
「調べて発表する」とか「伝え合う活動をする」とか「○○記者になって取材する」とか
などといったものが増えてきているのである。

このような学習は、
学級活動はもとより、異学年との交流や、地域への発信や、ボランティア活動など多彩に展開でき、
ひいては国語の力を実践的に高める事ができる、と言われている。
総合的な学習の時間とタイアップすることで、その効果もより高まる、らしい。

そんなよいところが強調されている単元なのに、
なぜ、わざわざこれを「物語的に展開」しようと思ったか。

その第一の理由は、
国語の一題材を、
国語的かつ総合的に展開するには、
自分はまだまだ力不足であるということである。
こんな自分が、
いわゆる ”総合的な国語 を展開をしたら、
子ども一人一人を主役にできるわけがない、のである。
まあ、発表会ぐらいなら、できると思うが。

もう一つの理由は、
ここで資料として扱われている「手と心で読む」という文章が、
とても素晴らしく、読み応えがあり、考えどころがあり、
子どもたちにとって、
これから成長してく中で、
この文章を読み深めたという経験が、
きっと意味をもってくるだろうと思われたからである。
言ってみれば、
4年生「ごんぎつね」(新美南吉)
5年生「大造じいさんとガン」(椋鳩十)
6年生「やまなし」(宮沢賢治)
など、一生忘れがたい名作たちに共通するものに近いものを
そこに感じたということなのかもしれない。

かつては、
これらに匹敵する物語教材があと1つか2つくらいはあったように感じる。
そういう教科書で、
かつての大先輩の先生方は、
骨太の国語の授業をしてきたに違いないのである。
それらが、他の教材にとってかわった今、
骨太の国語の授業を
どう具現化していくか。

脇役である担任は、
この日、
そのことに挑戦してみたかったのである。…
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