ごめんなさい

昨日の昼休みに
クラス対抗フットサル大会が行われた。
4の1は、健闘及ばず敗退。

掃除を終えて教室に戻ると、
黒板に大きく
「ごめんなさい」の文字。

教室の席を見回すと、
みんなの表情はどんよりと暗い。
今にも泣き出しそうな子もいる。

静かに挨拶をして授業を始める。

担任 「『ごめんなさい』って、何がごめんなさいなの?」
子   (しーん)

担任 「もしかして、フットサルの応援に行っていた、あなたの気持ちですか」
応援団「書いたのは自分ではないけれど、
    自分ももっと応援していればよかったと思うから、
    ごめんなさいの気持ちです」

担任 「では、選手だった、あなたの気持ちですか」
選手 「自分も書いたわけではないけれど、
    せっかくみんなが応援してくれたのに
    負けてしまって、1点も入れられなくて、
    ごめんなさいの気持ちです」

担任 「では、応援した人も、選手の人も、
    みんな、今、『ごめんなさい』と思っているのね」

しかし、本当は、だれも「ごめんなさい」ではないはず。
選手たちは、誰一人として、手を抜いて戦っていた子などいない。
時間いっぱい、必死にボールを追いかけて力一杯走っていた。
応援団もそうだ。
昼休みにもかかわらず、全員が体育館に集合し、
選手達の活躍を大声で応援した。
中には、お手製のうちわを両手にもってがんばっている子もいた。
頭には、ハチマキもくくられていた。
こんなみんなに「ごめんなさい」といわなければいけない理由などない。

ある子の日記にはこう書いてあった。(略文)
「わたしは初めて選手に選ばれた。
 試合前はどきどきした。
 試合中はボールを追いかけて一生懸命走った。
 でも、1点も入れられなかった。
 応援しに来てくれたみんなに
 ごめんなさい、の気持ちだった。」

思えば、
前学期のドッチボール大会。
あの時は、4の1が見事優勝だった。
そして、あの時も、
今日と同じように、
黒板に大きな文字が書かれていた。
その文字は、「ありがとう」。

それを書いた主は、
選手たちではなくて、
選手に選ばれなくて、
悔しい思いをしていたはずの、
応援組の子たちだった。

その「ありがとう」は、
自分たちのために
一生懸命に戦ってくれて「ありがとう」だったのだ。

それを目の当たりにした選手たちは、
すかさず
「応援してくれたみんなのおかげです。
 ありがとう」
というメッセージを残していた。

あの心の交流から、数ヶ月。

今回だって、
「ごめんなさい」ではなくて、
やっぱり「ありがとう」なのだと
担任は思う。…
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自作電球

理科「もののあたたまり方」では、
アルコールランプの他に、
電源装置も使う。

その電源装置を見て、ある子が、
「あ、これならできるかも。。。」と
つぶやいた。

翌日、その子は、
クリップと、耐熱ガラスのコップと、科学図鑑を手に登校した。
そして、あるページを開いて、
「先生、これ、試してみたいのですが」と見せてくれた。
そこには、シャープペンシルの芯に電気を流すと、
電球のように明るく光る、という説明があった。

給食の準備をしている傍らで、
その再現を試みる事になった。
シャープペンシルのBの芯を
別の友達が快くさし出してくれた。
準備をしっかりして登校してきていたので、
装置はあっというまに整った。

スイッチ、オン。
まず、けむりが出る。
けむりが出なくなったら、もう少し電圧を上げる。
すると!!
ピカーッ!!
見事に電球になって、明るい光を放った。
歓声をあげている子や、
息を飲んで見つめている子がいた。

約10秒後、その芯は燃え尽きて、明かりは消えた。
自作電球は、その点灯時間は短かったが、成功だった。

思えば、
近頃の理科の授業では、
なぜか電源装置はほとんど使わなくなった。
モーターを回したり、電磁石を作ったり、何かの回路を作ったり、
電気工作好きの子たちにとっては、
とっても魅力のあるものなのに。
電気工作をしていると、どうしても、
もっと電圧がほしくなったり、
もっと長い時間作動させたくなったりする。
そんな時、子どもたちは、まずは、
乾電池の数を増やしたり、
3つ4つと直列につないだりしてなんとかする。
そのうち、結線部分が怪しくなって、修理が絶えない。
(3年理科の段階では、このような経験をたっぷりと味わっておくのがよい)
それに比べて、電源装置は便利だ。
恒に、一定の電気を供給してくれる。
必要であれば、少々、高めの電圧も試すことができる。
正しい使い方さえ守れば、安全でもある。
4年理科では、どんどん電源装置を扱っていくとよいと個人的には思う。

その電源装置を見て、どこかで、ある子が、
「あ、これならできるかも。。。」と
つぶやくことがあるのかもしれないのだから。

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ごんぎつね3場面

昨日の授業参観で
する「予定」だった国語「ごんぎつね」の授業を
1日遅れで、今日、行う。
これが、60分にもおよぶ授業というドラマになった。

ごんぎつねは、言わずと知れた
4年生の題材の中でも屈指の名作。

独りぼっちがゆえにいたずらばかりしてしまうごんが、
ある日、兵十にしていたずらをしてしまう。
同じ頃、兵十のお母さんの葬列に出くわしたごんは、
自分のいたずらのせいで、
兵十のおかあさんに大好きなウナギを食べさせることができずに
死なせてしまった、と思い込む。
そのつぐないをしようと、イワシやくりや松茸を
そっと兵十の家に運ぶ。
そうとは知らない兵十は、
くりを運び込んだごんを火縄銃で撃ってしまう。
そこで初めて、
兵十は、くりや松茸を運んでくれたのはごんだったことを知り、
ごんは、そのことに気付いた兵十にこくりとうなづく。
それまでずっとすれ違いの多かった二人が、
最後の局面でようやく分かり合える、という、
悲しいお話なのか、
心が通じ合えてよかったというお話なのか、
考えさせられることの多いお話。

そんな6場面からなるお話の、
今日は3場面。
イワシを投げ入れたり、
くりや松茸を裏口に置いていったりする姿が印象的な部分。

授業前の構想はこうだった。

まず、イワシを投げ入れたときのごんの気持ちを考える。
.まず一ついいことをした。…
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今、何時?

今、何時?
そうね、だいたいね。
今、何時?
まだ、早い?

懐かしい唄のフレーズではないが、
こんな会話を、今日は何度したことか。

実は、先日から、教室の時計が止まってしまっている。
ふと時計を見ると、
いつも止まっているから、
なんだか都合が悪い。
そう感じながら過ごした1日だった。

しかし、
そんな時計の止まった暮らしをしているうちに、
みんなの動きに、ある変化が見られてきた。

授業を始めようかと教室に戻ると、
。。。
もうほとんどの子たちが着席しているのである。
いつもなら、担任の一声であわてて座るのに。
おかしいな(いいことなのだけど)、と思いつつ、
そのまま授業を始めた。

次の授業になって、また、教室に戻ると、
。。。
なんと、、もうほとんどの子たちが席に座っている。
まだ、休み時間は3分くらいあったのに。

あ、そうか。
今日は、教室の時計が止まっているせいかもしれない。
時計が止まっているものだから、
逆に時間が気になってしまったのかもしれない。
時間が気になるあまり、
うかうか遊んでもいられず、
そろそろ座って待っていようかな、
と考えたのかもしれない。

そう思っていると、
遠くの方からある子が、
「先生、今、何時?」
と聞いてきた。

時計の止まった暮らしもよいかもしれない。… 続きを読む...

水換え

先日、「久しぶり」に、
4の1水族館の水槽の水換えをした。

小型の水槽の数は、10以上。
その他に中型、大型の水槽もある。
みんなは、寒い中、
冷たい水に手を入れて、
そっと魚をすくい分けたり、
じゃりをじゃぶじゃぶ洗ったり、
かべの藻をこすり取ったり、
再び水を注いで、石や水草をセットしたりした。

作業を終えたころには、
みんなの手は真っ赤になっていた。

そうじをする前までは、
一見すると、そんなに汚れている様子ではなかったが、
洗ってみると、じゃりの間には、
けっこうごみがたまっていたようで、
そうじをすればするほど、
汚れが浮き出てくるようだった。
それは、
3学期の初め以来、約1ヶ月ぶりとなる
「久しぶり」の水槽のそうじだったせいもある。

実は、
この「久しぶり」というところに意味がある。
そもそも、この水槽は、
自然の環境が保たれるように
みんなが工夫して作ったバランスドアクアリウム。
冬休み明けに掃除をしてからこれまでのほぼ1ヶ月間、
水換えもしなければ、
エアレーションもしない、
えさもほとんどやらない、
という状態で魚が過ごしてこれたことは
みんなが作ったそれぞれの水槽の中では
微妙なバランスが保たれていた
と考えることができる。

さて、
次回の水換えはいつ頃になるだろうか。
おそらく、次回もほぼ1ヶ月後でいいだろう、
というわけにはいかない。
気温の上昇や、水温の変化、魚の成長ぶりなどから
みんなと一緒に総合的に考え、流動的に判断していきたい。…
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第2回アイスキャンディー実験

冬場の冷え込みを活かして、
自然の冷凍庫でアイスキャンディーを作ろうと、
ささやかな実験をした。

試験管を置く場所を
池の上、池の水の中、屋上、屋上の雪の中、などに変えたり、
水の量を
多め、半分、少し、などに変えたりして、
互いに比較しながら実験をした。

第1回目は、
ほとんどの班が失敗だった。
わずかに凍った班の条件は、
「屋上の雪の中、水は多め」だった。

失敗は、成功への最大の近道である。

あれから第2回目の実験をし、結果が出た。
多くの班の試験管が凍った。
試験管の中からアイスキャンディー状の氷をそおっと抜き出し、
その透き通った美しい氷をうれしそうに眺めた。

と、ここで、
みんなが成功してバンザイ、
で終わらないのが4の1のみんなのすごさである。

ある班の試験管(プラスチック製)にひびがはいった!
というのである。
氷が融けて、水がしたたり落ちてきて困っていた。
すかさず、
「凍るとかさが増える、と前の理科の時に実験したのと同じだ」
「ペットボトルを凍らせると膨らむから、それで割れたんだ」
と意見がつながった。
そして、
「凍るとすごい力が出るんだね」
「ただの水だったのが、凍るとプラスチックやガラスまで壊すんだ」
と自然のすごさや不思議さを感じていった。

また、ある班の試験管は、
上の方だけが凍っていて、先の方はまだ水のままだった。
それを見て、すかさず、
「水は上の方から凍るんだ」
「そうか、池の氷と同じだ。池も上が凍っているけど下は水だよね」
「順番に凍っていくんだね」
「それなら、ぼくは『つらら』だって同じだと思います」
水が凍っていく過程をよく想像して考えが膨らんでいった。

また、ある班では、あえて凍らないようにする?
という実験もしていた。
ただの水を入れた試験管と、
洗剤をまぜた試験管を作って、
その結果がどうなるのか楽しみにしていたという。
結果、洗剤を混ぜた方は凍らなかった。
アイスキャンディー実験としては失敗だが、
彼女たちにとっては密かな成功感を味わえた実験となった。
そのことに、ある子が言った。
「夏にオレンジジュースを凍らせたら、
 分離して、水の部分だけ凍って、オレンジのところは凍らなかった。
 それも、この実験と同じことかな」
「ああ、そうか。そういうこと、ぼくもあるよ」
「何かが混ざっていると凍りにくくなるということだ」
「でも、お母さんの車のウオッシャー液が凍って出なくなったよ」
「もっと洗剤を入れて、濃くしたらどうかな」

こうして、
第2回アイスキャンディー実験が終わった。

外に置いておいた試験管を取りに外に出た時、
子どもたちは、ある先生に出会って、
こんな会話をかわしていた。
「君たちは何をしているの?」
「自然の寒さでアイスキャンディーを作ろう実験です」
「アイスキャンディー実験?いいなあ。。。
 そんな実験とか言って遊んでいるだけじゃないのかい?」
「アハハハ」

もちろん、そこで出会った先生は
本心から「遊んでいるだけ」と言っているわけではない。

遊びと学び、
紙一重である。

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マダラカマドウマ

雪が降り積もった中庭の隅から、
クラスの子がそっと手にもってきた昆虫。

「先生〜、寒そうだったので捕まえてきました〜あ」
「なんて言う名前か、先生、知ってる?」
「それなら、ぼく、知ってる。。。
 家の床下とかによくいるって、
 前に読んだ図鑑に書いてあったような」
「よし、図書室で調べてこよう」
「よし、行こう」

雪の中でも、
こうしてたくましく春を待つ昆虫がいることを
子どもたちは、
いつ、
どんなきっかけで
学んでいくものなのだろう、と時々思ってはいたが、
この子たちにとってのそれが、
今日、まさに、こんなふうに訪れた。

「冬の生き物たちの様子」を知るきっかけやタイミングは
一人一人違っていて、
その時、その時が、
その子にとっての学びの時間や場だったりする。
そこには、学習の優劣や学習の法則など存在しない。
だからこそ、
クラス40人一人一人に、
違ったタイミングで、しかし、必ず訪れるその瞬間を
全部、その子たちと共有することができたなら、
この仕事のすばらしさが
また一つ増えるというもの。

だが、おそらく、
誰が、どんな時に
「冬の生き物たちの様子」を知るきっかけを得たのか、
などという調査や報告なんかは、これまで、ない。

どうでもよいと思われる調査や報告やアンケートや評価などに
一喜一憂しているくらいなら、
こんな調査をしてみた方がいくらかまし。

おっと、話を元に戻す。

その昆虫の名前は、
図鑑の写真や、生息環境などの状況から
「マダラカマドウマ」だということになった。
(専門家ではないので正確ではないかもしれないが)

名前がわかった子どもたちは、さて、次にどうするか。
しばらくすると、
空いていた虫かごに、石や草や土などを入れた。
雪のないときの中庭と同じ環境がそこに再現されていた。
2学期に「4の1水族館」で、
バランスドアクアリウムを作ったときのように。

これからの3学期。
ちょうど、4年生の理科には、
「冬の生き物たち」について学ぶ単元がある。…
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