5の2編 おもり満タン実験

5の2編 ふりこの運動の学習

本単元では、
実験の技能面について学ぶ視点が主に2つある。
1つは、条件規制。
もう1つは、「誤差の処理」である。

その「誤差の処理」については、また主に2つある。
1つは、数回測定して平均を出す、という方法。
もう1つは、端数は切り捨てる、または四捨五入する、という方法。

いずれにしても、
それらのことは教師から「教える」ことが多い。
自分自身も、これまではそうしてきた。

ところが、この日の5の2は違っていた。

おもりの重さを変えてふりこが1往復する時間を確かめていたときのこと。
おもり1個 平均7.1秒
おもり3個 平均7.2秒
という結果が出た。
この0.1秒の違いを誤差とみるか、性質の違いとみるか。

大人らなら、誤差とみるのがふつうだが、
子ども、とりわけ理科好きな子どもほど、
この0.1秒にこだわる傾向が強い。
そんな子どもを納得させるような
すばらしい考えが、今日、提案された。

「誤差と考えて良いかどうか、
 おもりを3個よりもっと増やして、
 おもりを満タンにして実験してみたらいい」

この、すばらしい提案におもわずうなづいてしまった。

おもり3個で0.1秒の差が出たのを誤差ではない、というのなら
おもりを満タンにして10個くらいにすると、
もっと差が出るはずだ、というのである。

さっそく「おもり満タン実験」となった。
結果は、
おもりを10個にしても差は、0.1秒。
つまり、誤差と考えられるのである。

こうして、
いつもなら教師が「教える」ことを、
この日は子ども達が自ら獲得していった。…
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5の1編 デジャヴー

5の1編 メダカの成長の学習
今日の学習は水中の微生物について。

ちょうど昨日、この紙面に
「授業の中で、
 わざわざメダカを捕獲する活動から行うのには、
 それなりの理由がある。」
と書いていたが、
そのことが、
今日の授業中にデジャヴー。

T メダカはこんなに小さい体だから
 えさなんていらないよねえ。

子:そんなことないよ。えさは私たちのご飯といっしょだよ。
子:水草や藻を食べているんだよ。
子:証拠がある。緑色のフンみたいのがあったよ。
子:観察池には、水草も藻もある。
子:確か、みんなで観察池のメダカを捕まえたとき、メダカは水草の近くにいたよ。
子:それに、観察池ではだれも餌なんか買って与えていない。
子:そういえば、つかまえた観察池の底にもフンみたいのがあった。

こんな子どもたちの
矢継ぎ早に繰り出される発言たちを板書しながら、
「なんだか、以前にどこかで聞いたような会話だな」
という deja vu 的な感覚に。

昨日に書いていたことというのは、以下。

よりよく育てようとすればするほど、えさや水やすみかを整えようと
つかまえた場所を何度も訪れ、その棲息環境を丸ごと記憶し再現しようと試みる。…
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5の1編 メダカの成長

5の1編 メダカの成長

2匹のメダカを観察池から捕獲することから始まった
5年理科「メダカの成長」の学習。

本校の観察池には、
いわゆるクロメダカや、
ギンブナやタモロコやドジョウなどが棲息している。

授業の中で、
わざわざメダカを捕獲する活動から行うのには、
それなりの理由がある。


網を手にして水面に向かうと、
メダカというのは群れをなして泳いでいることに気付く。


その群れに網を入れれば簡単にすくえそうなのに、
サッと深く潜り込んで簡単には捕まらないことを知る。


確実に捕まえようとするならば、
水草の石の陰などメダカが身を隠して潜んでいそうな場所を考え出す。


捕まえることに成功すると、もうあと1匹しか捕まえられないことから、
それがオスかメスかが気になり始め、その見分け方を質問し始める。


自分たちが苦労してつかまえた”メダカちゃん”たちだから、
愛着をもって育てたり観察したりする。


よりよく育てようとすればするほど、えさや水やすみかを整えようと
つかまえた場所を何度も訪れ、その棲息環境を丸ごと記憶し再現しようと試みる。

これが、もし、
買ってきたメダカ教材だったらどうなのだろう。


網を手にして水面に向かうこと自体ない。
メダカというのは群れをなして泳いでいることに気付く機会を失う。


その群れに網を入れれば簡単にすくえてしまう。
サッと深く潜り込んで簡単には捕まらないことを知る機会を失う。


確実に捕まえようとする、という必要性すらうまれない。
水草の石の陰などメダカが身を隠して潜んでいそうな場所を考え出す機会を失う。


それがオスかメスかが気になり始め、その見分け方を質問し始める。
これは何とか実現しそうだが、「2匹だけ」という約束を忘れずに。


自分たちが苦労してつかまえた”メダカちゃん”たちではない。
愛着をもった「命」と向き合えるか、あるいは、与えられた「モノ」となるか。


つかまえた場所を何度も訪れるということ自体が無理であり、
現地にフィードバックして、自然から学ぶ機会を失う。
結果、別のソースからその棲息環境を丸ごと記憶し再現しようと試みる。

理科の授業の中で、
わざわざメダカを捕獲する活動から行うのには、
それなりの理由がある。

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金環日食の実力

金環日食の観察会。
早朝にもかかわらず、校舎の屋上には、
たくさんの子ども達が集まってくれた。

手にはそれぞれ太陽グラスをもち、
手作りのピンホールをしのばせ、
記録シートや図鑑を携えてくる子もいた。

観察会が始まると、
みんなは思い思いに
スケッチを取ったり、
鏡で反射させたり、
気温を測ったり、
クラッカーのピンホールで投影したり、
友達と太陽グラスを交換し合ったりしながら楽しんだ。
(種類によって、オレンジ色や白色や緑色など、見え方が違う!)

いよいよ最大食になると、
O先生がセッティングしてくれたネット中継のスクリーンには
金環日食の瞬間も映し出され、
みんなは、
目の前の天体ショーと、
世紀の金環日食と、
その両方を満喫した。

この間、
刻一刻と変化していく太陽と、
不思議な雰囲気になっていく周囲の様子は、
私たちのわくわく感をずっと駆り立ててくれた。

こうして観察会が無事、終わった。
1億5000万kmという広い宇宙空間の中で起こったドラマの余韻だけが残った。

それにしても、
やっぱり自然の力はすごい!と思った。

日食の下では、
誰一人としてけんかする子などいなかった。
たいくつそうにしている子も、
落ち着きなく騒ぎ出す子も、
道具を取り合う子も、いなかった。

日食の下では、
みんなが心から楽しそうで、
みんながとびっきり目を輝かせていて、
みんなが手を取り合っていて
みんなが平和で、
みんなが謙虚で、
みんなが自然だった。

これが、金環日食の実力か。

数十年にたった一度だけれど、
たった数分間の出来事だったけれど、
それで終わったわけではなく
それを目にした子ども達が
これから先に築き上げていく未来に、
きっと、
そっと、
ずっと、
影響を与え続けていくものと信じている。

それが、金環日食の実力。
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2の2編 ぼくらはあきらめない

2の2生活科 夏野菜を育てよう

先日の生活科の時間のこと。
外は、小雨がふったりやんだり。

授業を始めようとして
2の2の教室に入って一言。
T「今日はこの天気だから、あきらめようか」

子「え?あきらめないよ」
子「そうだよ、ぼくらは絶対やるんだよ」
子「野菜のためなら、がんばるんだ」
子「私も外に出るよ、だって。。。」

T「だって、何?」
子「私と、○○ちゃんと、○○ちゃんが。。。ね?}

T「ね?って?」
子「あのね、毎日、外に出て草むしりをしているの。」
子「そう、もうだいぶ土が見えてきて畑らしくなってきたよ。」
子「朝も行くし、長休みも行くし。」

子「先生、早く草をむしりに行きましょう」
子「ぼくたちは、野菜のためなら、あきらめないんだから。」

こんなすてきな子ども達を前に、
いつも思い悩むことがある。

それは、
この時期の子どもが「夏野菜を育てる」活動に取り組むということは、
1 夏野菜をよりよく育てる育て方を学ぶことと、
2 生きる力としての自立の基礎を培うことと、
3 生命尊重や自然愛護などという道徳的価値観と向き合うことと、
どれを第一義とすべきなのか、
ということ。

低学年理科があったころは、それは1に近かったろう。
生活科が登場してからは、それは2だと言われてきた感がある。
個人的には、そのどちらでもない3だと思っているのだが、
残念ながら、論文、実践記録、雑誌等をみるところ、
今のところ賛同者はほぼ皆無。

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