富山と南極

南極授業が授業であるために17

コンテンツNo.14  JARE54-芦峅寺五人衆

「南極授業」の大きなテーマの一つは、
富山と南極のつながりだった。

わがふるさと富山と
遠く離れた南極との間には、
実は歴史的に関係深いものがある。

昭和32年、第1次日本南極地域観測隊が
南極に到達した。
そこに、富山県人が数名含まれていた。
彼らは「芦峅5人衆」と呼ばれていた。
立山の山岳ガイドとしての高い技術があった。
と同時に、屈強な精神力も兼ね備えていた。
彼らの活躍ぶりは、今でも郷土の誇りである。

今回、富山で育った私が南極を訪れることになったが、
この事実を南極授業で取り上げることは
授業の中の一つのアイデア、というよりは、
むしろ、それが私の責任なのだ、
そう思った。”… 続きを読む...

3つの偶然

南極授業が授業であるために16

この「素材」が「教材」になったのは
まさに偶然に偶然が重なってのことだった。

まず、1つ目の偶然は、
その「アザラシのミイラの発見」だった。


この日は、しらせで同室だったH隊員を含め数名で行動していた。
そのH隊員がふとつぶやいた。
「あれえ、これ、なんですかねえ。。。」
それはとても落ち着いた口調だったので、
それが、ほぼ完璧な状態のミイラだと認識するまでには、
少し時間がかかった。

2つ目の偶然は、
そのアザラシのミイラが、
眠るように真上を向いて横たわっていたことだ。

その背後には、
何千年、何万年もの間に積み重なった氷河の壁がそびえている。
私たちがいるこの空間だけ
まるで時間が止まっているようだった。

3つ目の偶然は、
日本を発つ前に、
ある博物館で開催されていたツタンカーメン展を
私は訪れていたことだった。

そのせいだろうか。
何千年、何万年と積もった氷河の前で、
眠るように横たわるその様は
まるでツタンカーメンの棺のように
私には見えたてきたのである。

そう思ったとたん、
「アザラシのミイラ」から、
何やら得体の知れない荘厳さが伝わってきたのである。

この瞬間、
これは「教材」へと昇華した。

私は、自然解説員ナチュラリストではない。
また、ミニ研究者やミニ博士でもない。
一介の教員として、
自分の目で見て、
自分なりに感じたことを、
自分の言葉で、
子供たちと向き合わなければならない。

ここ南極ではずっとそう思ってきた。”… 続きを読む...

アザラシのミイラという教材

南極授業が授業であるために15

JARE54-スカーレンにて

このコンテンツには、
実は「アザラシのミイラ」が出てくる。

その姿は
私たちも驚くほど完全な形に近い状態だった。
ひれの形もよく保存されており、
顔には真っ白な歯形がそのまま残っていて
今にも動き出しそうだった。

このコンテンツを教材に南極授業をしていると、
画面の向こう側にいる子ども達の
鋭い視線を感じることができた。
それは何だか不思議な感じだった。

では、その要因はどこにあったか。

まず、「動物がミイラ化する」
という非日常的な現象にある。

前回までのシリーズをふまえて言うならば、
アザラシのミイラという「シンプルさ」と
まるで生きているみたいだ、ミイラなのに。。。という「矛盾」とが
その一瞬の映像の中にあったと言える。

しかし、
そのインパクトの大きさだけでは
やっぱり本当の教材にはなり得ない。

「授業者」としては
その持てる力を結集しければならないものがある。”… 続きを読む...

心の琴線に触れる

南極授業が授業であるために14

授業で使うコンテンツが、
子どもの心に響くものになるためには、
前述したようなことが背景にある。

だが、もう一つ、
忘れてはならないことがある。

それは、
「ついに世界初を成し遂げた研究者の、
 まるで少年のような喜びとあの瞳の輝き」だ。
それを映し出した部分の映像が、
子供たちの心をつかんだのだと思う。

そこには、理屈もなにもないのである。

実は、授業のよしあしを握る鍵については、
近年の教科教育の研究によって
少しずつ明らかになってきている。
いわゆる、王道の授業理論が
実践的かつ科学的に構築されつつある。

しかし、個人的には、
それでもなお、
最後の最後の部分、つまり、
心の琴線に触れるような部分は、
子どもと教師と教材との
共同作業で作り上げていくしかない、
そう思っている。

あの日、
あの時、
あの遠隔授業をとおして生まれた、
あの空気感は、
2度と生まれないのである。

でも、
授業というのは、それでいい。”… 続きを読む...

失敗という教材性

南極授業が授業であるために13

授業コンテンツ「JARE54-世界初!無人航空機気体サンプリング」が
子どもの心をとらえてはなさなかった理由の二つ目は、
それが「成功」ではなく「失敗」という場面であったことだろう。

そのときの研究者たちの残念そうな声、
くやしさのにじみ出た言葉、
それでも笑ってみせたあの表情、
傷ついて回収された機体。。。
どの姿も
ぜひ子供たちに丸ごと提示したい、
そう思った。

だからあの日は、
実験が終わってからも
傷ついた機体が回収されて戻ってくる瞬間を見届けようと
回収ヘリが基地に到着するまでずっと待つことにした。

実際の授業で子どもたちは、
その時の映像をくいいるように見つめたのだった。”… 続きを読む...

シンプルさ

南極授業が授業であるために12

南極昭和基地での観測、設営活動は、
通常の状況とは異なり、
一筋縄でいかないことが多い。

それだけに、隊員は全力を尽くす。
全力を注いでいるところには、
いつもドラマが生まれる。
夏の甲子園、オリンピック、などがそうであるように。

今回、JARE54においても、
忘れがたいドラマがたくさんあった。
そのひとつを取り上げたコンテンツが
「JARE54-世界初!無人航空機気体サンプリング 」

これは、昭和基地周辺の上空から
気体サンプルを回収するのに
なんと「無人の模型航空機」を利用しようという試み。

授業者の実感としては、
おそらくこのコンテンツを取り上げていた時間帯の
子供の反応が集中していたのではないと感じている。

では、なぜこのコンテンツが「教材」となり得たか。

一つ目は、
「ラジコンのような航空機」が子どもたちにとってとても魅力的な存在であり、
同時にそれが、
「なぜ、南極で模型飛行機なの?」
という予定不調和を起こしていたことだと考える。
このシンプルさが
授業では大事なのである。”… 続きを読む...

問いが生まれる

南極授業が授業であるために11

われわれ同行教員が「南極授業」で本質とすべきことは、
むしろ、
「学ぶことや生きることの意味」のようなものではないだろうか。

「1000本もあるのに、1本1本手作業で立てていく姿」や
「過酷な状況下であるのに、目的を達成するためには努力を惜しまない姿」そのものが
授業の教材となるのである。

子ども達がその教材に直面した時、
「なぜ、そうまでしてするのか」
「人を突き動かすものは一体何なのか」
という問いが生まれる。

問いが生まれれば、そこに
子どもは類推を働かせ、
やがて思考を組み替え、
新たな推論を展開し、
これまでになかった概念を一人一人の中に形成していく。

そういうことは、
子どもの主体的な学びを大切にしてきた
先輩教員たちの日々の授業研究の中で
すでに明らかになってきていること。

だから、その流れを受け継ぐ一人の授業者としては、
たとえ「南極授業」が
限りなく一方通行に近い状況下で行うものであっても、
そこに少しでも主体的な学びが成立するよう、
ぎりぎりまであきらめないで
挑戦し続けなければならなかったのである。

そうして出来上がったこのコンテンツは、
今も時々、
子ども達とのミニ南極授業に登場するのだが、
比較的好評である。

そういう子ども達の姿を見るにつけ、
先輩教員に実践によって明らかにされてきた授業の本質は、
今も昔も変わらないのだと痛感させられるのである。

授業は、
その本質をとらえてさえいれば、
子ども達を引きつけて離さない。”… 続きを読む...

本質は何か

南極授業が授業であるために10
 
もうひとつ、
「教材化」をはかる上で留意していることがある。
それは、いつのときも
「本質の見極め」である。

例えば、教材として
昭和基地における「PANSY計画」
を取り上げると決めたら、
その本質は何かを見極めることが大切。

たしかに、
昭和基地で行われているPANSY計画には、
「1000本ものアンテナを立てる」
「南極では世界初の試みである」などなど、
その話題性やインパクトの強さは相当なものがある。

それだけに、ついつい
十分な子ども理解や教材分析がなされないまま
授業の中に取り上げてしまいがち。
しかし、南極授業が授業であるためには、
それだけでは不十分であることは
すでにここまで述べてきた通り。

では、今回のPANSY計画を中心に据えたコンテンツの
本質は何か。

おそらくそれは、
PANSYとは、南極昭和基地大型大気レーダー(PANSYレーダー)のことで、
Program of the Antarctic Syowa MST/IS radar、の略で、
完成すれば南極最大の大型大気レーダーとなって、
これによってブリザードをもたらす極域低気圧のことや、
オゾンホールにも関係する対流圏界面などの研究が進み、
現在は、対流圏と成層圏の空気交換の様子がわかってきており、
将来的には、気候予測の精度向上などが期待されている。。。
などということではないだろう。

こういった側面は、
観測隊の研究者が行う「南極教室」に
譲りたい、いや、譲るべきだと思う。
そもそも、
われわれが「南極授業」で扱うには不可能な領域なのだ。
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