問いが生まれる
南極授業が授業であるために11
われわれ同行教員が「南極授業」で本質とすべきことは、
むしろ、
「学ぶことや生きることの意味」のようなものではないだろうか。
「1000本もあるのに、1本1本手作業で立てていく姿」や
「過酷な状況下であるのに、目的を達成するためには努力を惜しまない姿」そのものが
授業の教材となるのである。![]()
子ども達がその教材に直面した時、
「なぜ、そうまでしてするのか」
「人を突き動かすものは一体何なのか」
という問いが生まれる。
問いが生まれれば、そこに
子どもは類推を働かせ、
やがて思考を組み替え、
新たな推論を展開し、
これまでになかった概念を一人一人の中に形成していく。
そういうことは、
子どもの主体的な学びを大切にしてきた
先輩教員たちの日々の授業研究の中で
すでに明らかになってきていること。
だから、その流れを受け継ぐ一人の授業者としては、
たとえ「南極授業」が
限りなく一方通行に近い状況下で行うものであっても、
そこに少しでも主体的な学びが成立するよう、
ぎりぎりまであきらめないで
挑戦し続けなければならなかったのである。
そうして出来上がったこのコンテンツは、
今も時々、
子ども達とのミニ南極授業に登場するのだが、
比較的好評である。
そういう子ども達の姿を見るにつけ、
先輩教員に実践によって明らかにされてきた授業の本質は、
今も昔も変わらないのだと痛感させられるのである。
授業は、
その本質をとらえてさえいれば、
子ども達を引きつけて離さない。”
