光る立山

今年の書き初め大会の題字は
「光る立山」
これから十回、百回と練習することになる
「光る立山」

毎日見ているはずの立山連邦ではあるが、
子どもたちは、案外、
その大きさや美しさに圧倒されてしまった。。。
というほどのインパクトまでは味わっていないのかもしれない。

書き初め大会の練習開始を来週に控えたこの日、
教室の窓の外には、
ちょうどくっきりと立山連峰が「光って」いた。
まるで、子どもたちに
「さあ、見においで。そして、立派な字をかくんだよ」
と言ってくれているように思えた。

さっそく、画用紙と鉛筆をもって
屋上へと向かうことにした。
屋上の扉を開け、数歩進んだ、その時。
子どもたちの目の前に
雄大な立山連峰が飛び込んできた。

「わあ〜。。。」

子どもたちは、あっという間に
立山連峰に惹き付けられていった。
「先生、すごくきれいですね。」
「なんか、かっこいいなあ。」
「こんな景色がすぐそこにあるなんて、富山ってすごいところだなあ。」

毎日見ているはずの立山連邦の
その大きさや美しさに圧倒されるほどの
インパクトまでは味わっていないのかもしれない子どもたち。。。
と思っていたが、
やはり子どもの感性は、実に瑞々しい。

このあと、
「光る立山」の峰を眺めての鉛筆写生大会となった。

それから間もなく、
子どもたちは
すっかりその景色に溶け込んでいった。

その光景を見ながら
新春の書き初め大会が、
今から楽しみになってきた担任であった。

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5年前

5年前に作った理科の教材がある。
4年「もののかさと温度」の学習の教材である。

この単元では、
空気のかさは、温度が高いと大きくなり、
温度が下がると小さくなることを学ぶ。
水も同様。
ただし、その変化の大きさは、
空気に比べて小さい。

この現象を教科書では、
試験管の口の石けんの膜が膨らむことや
フラスコの栓が飛び出すことなどによって示している。
水の場合は、
ガラス管の中のインクやゼリーが
上昇したり下降したりすることによって示している。

子どもが扱う「もの」は、
試験管になったり、
フラスコになったり、
ガラス管になったり、と、
そのときそのときで追究が分断されてしまうことが気になっていた。
また、
試験管はともかく、
他の道具は40人一人一人に行き渡るものではなく、
どうしてもグループ学習にならざるを得なかった。
さらに、
試験管、フラスコ、ガラス管などは、
破損の危険も伴った。

5年前、
ある飲料水の瓶(130ml程度)が目に留まった。
それを50本集めた。
始めからついていたスクリューキャップは使い捨てだが、
ちょうどペットボトルのふたが再利用できた。
ペットボトルのふたにドリルで3.5mmの穴をあけ、
そこに外径3mmの金属製のパイプを20mmの長さに切って差し込んだ。
すきまから空気がもれないように、
外径4mmのゴム管をパッキンがわりにした。
こうすると、ちょうど、ペットボトルキャップの独楽のような形になる。
あとは、その上部にプラスチック製の細い管を取り付け、
その下部(瓶の内側になる部分)にはゴム管を取り付けると完成。
まあ、ここまでは、いろいろな部品を試したが、
プロトタイプができさえすれば、
あとは同じ作業を繰り返して大量生産すればいい。

こうして、
瓶の中を空にして温めたり冷やしたりすれば空気のかさの変化を、
瓶の中に水を満たして温めたり冷やしたりすれば水のかさの変化を、
追究していく「教材」ができた。
子どもにとっては、
いつも同じ装置で、
同じ追究の道筋で、
40人が一人一実験で、
比較的安全に、
追究できるようになった。

その教材を5年ぶりに取り出して使っている。
破損したり、劣化したり、欠品したりしている部分もあったが
そこはもともと手作り製品、
修理はすぐにできる。

実際に授業をしてみると、
驚いたことに、
子どもたちの生き生きとした反応は、
あのときと一緒だった。

それは、この教材がいい、といいたいのではない。
子どもはいつの時代も変わらない、ということをいいたいのである。
事象に十分に触れたり、
よく観察したり、
何度も繰り返し試したりして、
自分の見方や考え方が瞬時に更新されていくことに
何よりも喜びを感じる存在なのである。

生まれて初めて、を体験する子どもたちの様々な機会を
どうプロデュースしていくか、
まだまだ学ばなければならないことが多い。
学校でも、家庭でも、地域社会でも。…
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季節外れ

4の1の小動物コーナーに
新たななかまが加わった。

驚いたことに、アゲハの幼虫だった。

近頃の冬を感じさせるような寒い日々は、
昆虫たちの冬支度も容易に想像させていたが、
なぜか、
このアゲハは、幼虫のままだった。

この季節外れのアゲハの幼虫に
さっそくみんなが集まってきた。

どうして、今頃?
なぜ、さなぎにならなかったの?
このあと、どうなるの?
もしも、自然の中にいたら?

と、一気に、
みんなのあれ?なぜ?どうして?が吹き出してきた。

そして、次の瞬間には、
「なんとか無事にさなぎにさせようプロジェクト」
がスタートしていた。

みかんの葉っぱがある方は、ご協力をお願いします。

それにしても、
いったいどっちが季節外れなのだろうか?

気温やえさの量や棲息環境や、
その他多様な自然の営みで動いているのは、
むしろアゲハの方。

「秋になるとアゲハは蛹になります」
という模範解答は、
アゲハにとっては何の意味ももたない。

もしかしたら、アゲハの体内時計から
大きく外れたことをしているのは
人間界の営みの方かもしれない。

まあ、心当たりはいっぱいある。
「○○しているなんて、季節外れだね」
とアゲハさんから言われてしまいそうだ。

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学級というところ

今日の算数の時間。
「ちがいに目をつけて」
例えばこんな問題。

「つとむさんとはなこさんで60個作ります。
 つとむさんははなこさんより10個多く作ります。
 つとむさんとはなこさんはいくつずつ作りますか。」

だが、別に、今回は、
この問題の解決をめぐる算数的な話ではない。
この問題の解決をめぐる人間的な話である。

「ちがいに目をつけて」だから、模範的な解法は以下。
60−10=50
50÷ 2=25(はなこさんの数)
25+10=35(つとむさんの数)
このことをA児やB児が次々と説明した。

そこで、まだ他にもあるよ、とZ児。
自分のやり方はね。。。と次のような式を立てた。
60÷ 2=30
30-10=40(はなこさんの数)
30+10=20(つとむさんの数)
この解法では、
確かに二人の合計は60にはなるが、
二人の「ちがい」は10ではなく20になってしまう。

そこにすかさず、それを改良すればいい、とY児。
60÷ 2=30
10÷ 2= 5
30- 5=25(はなこさんの数)
30+ 5=35(つとむさんの数)
この改良によって、
二人の合計は60になり、かつ、
二人の「ちがい」は10になる。

ここで多くの子が納得した。
どちらの方法も正解である。
担任は、
前者をA•B法と名付け、
後者をZ法と名付けた。

その時である。

突然、Z児がこう言った。
「先生、その方法(後者の方法)は、Z•Y法です」と。

言うまでもないが、この発言には、こんな意味がある。
すなわち、
自分(Z児)が正答した解法は、
Y児が誤答したものをもとに改良を加えたものであって、
自分(Z児)と友達(Y児)との共作なのである、
ということを担任に進言しているのである。

感心させられるのは、
「Z•Y法と名付けるべきだ」と語った主が、
正答を述べたZ児であったということである。

その直後、
Y児はZ児に歩み寄り、
二人で、がっちりと固い握手を交わしていた。
その様子を、
みんなは微笑んで見つめていた。

有名な言葉に
「学級は間違う場所である」
というのがある。
ただ、
言うは易し、行うは難し。
なかなかそうはいかないものである。
なかなかそうはいかないはずのものが、
目の前で繰り広げられた今日の算数の時間。

こういうのを知るにつけ、
やれ、PISA型学力がどうだとか、
やれ、フィンランド何とかだとか、
やれ、全国順位がどうだとか、
ということの味気なさを想う。

そういうことを声高に言う立場の方々は、
こういう現場のドラマを味気なく想うのだろうか。

かつて、「ゆとり教育」がやり玉にあがったときも、
どなたかが論じていた。
「現場のことを知らない人や、そこから遠い立場にある人に限って、
 『ゆとり教育』を批判する傾向がある」と。

今、時代の寵児のようにもなっている
PISA型学力を推進なさる方々、あるいは、
フィンランド何とかに傾倒されている方々などが、
そうではないことを願うばかりである。

問題解決能力をめぐる話は、いつも教科的な話ばかりとは限らない。
問題解決能力をめぐる話は、極めて人間的な話ということもあるのである。
そういう話がまじめにできるのが、
学級というところであり、
教育の現場というところである。…
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何かもっている

今日は、音楽会に向けての最終練習。
いつもそう思っているつもりだが、
担任にとって、今日までの過程が音楽会そのものだった。
陸上記録会も、運動会も同様だ。

その最終練習を
一日の生活の中のどこで行うのがよいか。
朝一番からするのがいいか、
しばらくしてからの2時間目くらいにするのがいいか、
給食前の4時間目くらいにするのがいいか、
午後からがいいか、
そんなこともついつい考えてしまうのが担任というもの。

今日の4時間目。
ついに、そのタイミングがきた。
みんなの気持ちが、なんとなくほぐれていて、
のどのちょうしもなんとなくうるおっていて、
全身に入る力も、なんとなくみなぎっていた、
そんな気がしたのが4時間目だった。

その最終練習での歌声には、
何か伝わるものがあった。
これまで越えられそうで越えられなかった何かを
越えたような気がした。
4の1は何かをもっている、
そう思わせるものがあった。

今日までの過程の
最終地点で感じたことがそれだった。

昨日、大学野球屈指の注目投手は、
「何かをもっていると言われ続けてきた。
 自分なりに考えた結果、
 それは仲間です。」
と語ったという。

明日の音楽会では、
4の1の「それ」は何だったのかを
自分なりに考えてみたいと思う。…
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サプライズ

今日は、
中学年ドッチボール大会での
あるサプライズに感動した。
年がいもなくうるっときた。
いろいろあるが、やっぱり4の1の一員でよかったと思った。

それは、
ドッチボール大会で4の1が見事優勝した、
というような、そんなことではない。

話せば、ちょっと長くなる。
過去のいろんな場面が伏線としてつながってくるから長くなる。

ドッチボール大会の選手は男女各7名と決まっていた。
4の1では、それを越える希望者が立候補した。
7選手は、みんなの投票で民主的に決まった。
だからといってそれでいいというわけでないのが、
教育の現場である。
投票で惜しくも補欠に回った子たちがいた。
控えの席にさえつけなかった子たちもいた。
しかし、大会期間の2日間とも、
選手たちと同様に給食を早めに食べ、
体操服に着替え、
心の準備をして出場に備えていた。
こういうところに、
微妙な空気がさしこんでくるのを
担任なら誰でも経験上知っている。
知っていながら、
あからさまな手だてを打てないということも痛感している。
できることは、
できるだけみんなのそばにいて、
小さな心の動きをひとつひとつ納めていくことぐらいである。

いよいよ大会が始まった。
選手たちの活躍ぶりは見事だった。
コートでは随所にスーパープレーが生まれた。
そのたびに、応援席は歓声にわいた。
応援席の盛り上がりは、
コートの選手たちと一体となっていた。
担任の注意は、
そんな応援席のスーパープレーに惹き付けられていった。

そうして、4の1の優勝で、大会2日間の日程を終えた。

帰りの会、担任は、
まず応援席でのスーパープレーを紹介し、
次にコートでのスーパープレーを紹介しようと考えていた。
ところが、である。
「係からのお知らせ」のときにサプライズが起こった。

係の子たちが、
「今日のドッチボール大会で、
 私たち4の1のためにがんばって、
 そして優勝してくれた選手のみなさんに
 プレゼントがあります。
 前に出てきてください。」
と言い出したのだ。
選手たちは、黒板の前に横2列に整列するようにうながされ、
係の子たちは、一人一人にカプセルプレゼントを渡した。

このサプライズに、
担任の危険予知は、見事にはずれたのを自覚した。

そして、選手たちがこう語った。
「優勝できてうれしいです」
「みんなの応援があったから優勝できました」
「ボールを受けるたびにわーっというみんなの声が聞こえてうれしかったです」
「昼休みの時間なのに駆けつけてくれてみんなありがとう」

普通なら子どもたちに当然あるだろうと思われた微妙な空気。
そう心配していた担任を見事に裏切ってくれた4の1のみんな。
おそらくは、
心の奥ではそういうものもわずかにあった可能性もないわけではないが、
仮にそうだとしても、
4の1のみんなの心は、
担任の知らないところで、担任の予想以上に、着実に成長を遂げていた。

それが、今日のサプライズ。… 続きを読む...

fzk48

今、中フロアーの鉄棒周辺が熱い。
体操選手顔負けの見事な技の競演が
そこで繰り広げられているのである。

その主な選手たちの顔ぶれは、
実は4の1の女子たち。

足をひっかけてひょいと体を起こしたり、
体を大きく揺さぶってくるっと回ったり、 
何度も何度も連続で回転し続けたりと、
その歯切れの良い運動には
思わず足を止めてしまう。

これは、体育の授業でもなければ
スポーツクラブの練習でもない。
ただただ、純粋な「遊び」の場なのである。
にもかかわらず、
そこで身につけている技の高さや精度は
かなりのものがある。

すごいのは、
そこに特別な指導者がいるわけではない、ということである。
互いに、こつを教え合い、
互いに、「もう少し」「がんばれ」「上手だね」と声を掛け合い、
互いに、サポートしあっているのである。

さらにすごいのは、
それが毎回10分程度の休み時間中の練習、ということである。
何時間もぶっつづけで練習できる時間が保証されていたわけではなく、
しかも、順番のきまりを守って友達と交代しながら、
そういうことをこつこつと積み上げてきた結果なのである。

思えば、
私たち「親」の世代にもそういうことは確かにあった。
「剣玉」や「ヨーヨー」に夢中になってその技を高め合ったあの日。
魚とりや昆虫採集に夢中になったあの日。
毎日のように2〜3本の鉛筆をナイフで削って筆箱にしまっていたあの日。
そこには、べつに、
勉強とか、練習などといった意識はなかったはずだ。

そう考えているうちに
ふと現代に意識が戻ってくる。
すると、目の前には、
あの体操選手顔負けの見事な技の競演が
繰り広げられている。
その主な選手たちである4の1の女子たち。
名付けてfzk48。
わたしは勝手にそう呼んでいる。

よく似たネーミングのタレントが活躍中だが、
そもそもタレントとは、「才能」という意味。
新たな才能がfzkから発掘されている
まさにその現場のひとつが、
中フロアーの鉄棒周辺かもしれない。…
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社会科特別授業

今、社会科では
「富山市と神通川」との歴史的なつながりを学習している。

先日、
課題となっていた「新聞」が集まってきたが、
その内容の充実ぶりには驚いた。
一人一人の取り組みの濃さがすぐにわかる力作だった。
とても数十分では仕上がりそうにないことくらい
誰が見てもわかるような情報量と構造的なまとめ方が光っていた。
実際に富山城を見学したり、
郷土博物館の展示から学んできたり、
常夜灯を訪ねて歩いたり、
多くの情報を集めてまとめたりしていたのである。

しかし、それが学習の終わりではなかった。
それが、今日の学習のプロローグでもあったのだ。

今日の学習は、
郷土博物館の館長先生をお招きして行われた
いわば、特別授業だった。
社会科担当の先生が、
みんなの学習のためにと
最高の場と機会をセッティングしてくれていたのだ。
富山城と神通川との関係については
おそらく最も詳しい方のお一人であろう。
直接お話を聞くことができる貴重な機会である。
貴重な資料もいくつも見せていただいた。

あっという間に過ぎた1時間だった。
子どもたちの興味の芽は、
さらに今日、ぐん、と伸びた。

しかし、それが学習の終わりではない。
それが、明日からの学習のプロローグでもある。…
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