学級というところ

今日の算数の時間。
「ちがいに目をつけて」
例えばこんな問題。

「つとむさんとはなこさんで60個作ります。
 つとむさんははなこさんより10個多く作ります。
 つとむさんとはなこさんはいくつずつ作りますか。」

だが、別に、今回は、
この問題の解決をめぐる算数的な話ではない。
この問題の解決をめぐる人間的な話である。

「ちがいに目をつけて」だから、模範的な解法は以下。
60−10=50
50÷ 2=25(はなこさんの数)
25+10=35(つとむさんの数)
このことをA児やB児が次々と説明した。

そこで、まだ他にもあるよ、とZ児。
自分のやり方はね。。。と次のような式を立てた。
60÷ 2=30
30-10=40(はなこさんの数)
30+10=20(つとむさんの数)
この解法では、
確かに二人の合計は60にはなるが、
二人の「ちがい」は10ではなく20になってしまう。

そこにすかさず、それを改良すればいい、とY児。
60÷ 2=30
10÷ 2= 5
30- 5=25(はなこさんの数)
30+ 5=35(つとむさんの数)
この改良によって、
二人の合計は60になり、かつ、
二人の「ちがい」は10になる。

ここで多くの子が納得した。
どちらの方法も正解である。
担任は、
前者をA•B法と名付け、
後者をZ法と名付けた。

その時である。

突然、Z児がこう言った。
「先生、その方法(後者の方法)は、Z•Y法です」と。

言うまでもないが、この発言には、こんな意味がある。
すなわち、
自分(Z児)が正答した解法は、
Y児が誤答したものをもとに改良を加えたものであって、
自分(Z児)と友達(Y児)との共作なのである、
ということを担任に進言しているのである。

感心させられるのは、
「Z•Y法と名付けるべきだ」と語った主が、
正答を述べたZ児であったということである。

その直後、
Y児はZ児に歩み寄り、
二人で、がっちりと固い握手を交わしていた。
その様子を、
みんなは微笑んで見つめていた。

有名な言葉に
「学級は間違う場所である」
というのがある。
ただ、
言うは易し、行うは難し。
なかなかそうはいかないものである。
なかなかそうはいかないはずのものが、
目の前で繰り広げられた今日の算数の時間。

こういうのを知るにつけ、
やれ、PISA型学力がどうだとか、
やれ、フィンランド何とかだとか、
やれ、全国順位がどうだとか、
ということの味気なさを想う。

そういうことを声高に言う立場の方々は、
こういう現場のドラマを味気なく想うのだろうか。

かつて、「ゆとり教育」がやり玉にあがったときも、
どなたかが論じていた。
「現場のことを知らない人や、そこから遠い立場にある人に限って、
 『ゆとり教育』を批判する傾向がある」と。

今、時代の寵児のようにもなっている
PISA型学力を推進なさる方々、あるいは、
フィンランド何とかに傾倒されている方々などが、
そうではないことを願うばかりである。

問題解決能力をめぐる話は、いつも教科的な話ばかりとは限らない。
問題解決能力をめぐる話は、極めて人間的な話ということもあるのである。
そういう話がまじめにできるのが、
学級というところであり、
教育の現場というところである。

前の記事

天使の歌声

次の記事

季節外れ