ハリガネムシ

今回もカマキリの話題で恐縮だが、
今日は、この話題が中学年フロアーで
じわじわと広がっていった
そんな一日だったと言ってもよいくらいだ。

それは、朝に始まった。
「先生、ハリガネムシが出てきたよ」と子。
「ハリガネムシ?」
どこかで聞いたような、いつか図鑑で見たような。
でも、どんなのだっけ?思い出せない。
とにかく一緒について行ってみる。

そこには、なんと、
カマキリのおなかから出てきたばかりの
長いなが〜いハリガネムシがいた。

「カマキリのおなかのあたりが何かへんだったから
 おなかを指で押してみたらね、
 ハリガネムシが出てきたんだよ」とその子。

まだ体から出てきたばかりで
くねくねと不思議に動き回っている。
弱ってはいけない、と思ったのか、
その子は、
ハリガネムシにずっとスプレーの水をかけてやっている。
ようやくミニ水槽におちついたころには、
”事件”を聞きつけた数名の子どもたちが
もの珍しそうに集まってきていた。
そこには、
「うわ〜、これ、なんていう生き物なの?」
と得体の知れない生き物に目を奪われている子たちがいた。

「これ、どこにいたの?
 え?カマキリの体の中に?うそ〜」
と驚きを隠しきれない子たちもいた。

「あ、ハリガネムシだ。
 これは他の動物の体に寄生してるんだよ」
とその正体を見事に言い当て解説してくれる子たちもいた。

「。。。。。。」
と急に無口になって
ひたすら、その不思議な動きを
飽きる事なくみている子たちもいた。

こんな実に様々な反応は、
その後、
じわじわといろんなところに広がっていった。

休み時間になると、
「なになに?ハリガネムシがいるって、ほんと?」
「あ、ほんとだ。ハリガネみたいだ。」
と子どもたちが入れ替わり立ち寄って行ったし、
少し離れた場所からでも、
「ねえ、もう見た?ハリガネムシっていうの。」
「うん、見たけど、あれって生き物?」
という声が聞こえてきたし、
隣のクラスからも、
「このムシ、カマキリの体の中から出てきたらしいよ」
「じゃ、カマキリはどうなったの?」
と心配そうに除き込みに来た子もいたし、
数名の仲間を連れてきて、
「だろ、よく動くムシだろ」
「たしかに。でも、目はどこ?口はどこ?心臓はどこ?」
「それが、ぼくにもわかんないだよ」
と一緒に観察しはじめる子たちもいた。

今日は、こんなちょっとめずらしい話題が
中学年フロアーで
じわじわと広がっていった
そんな一日だった。…
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カマキリの産卵

教室前では、生き物コーナーが
自然発生的に広がっている。

ザリガニ、バッタ、コオロギ、カブトムシの幼虫、フナ、メダカ。。。
最近では、カマキリも大きくなってきているようで、
登校中や中庭で出会った大きなカマキリが、
このコーナーに運び込まれることも多くなった。

先日、9月21日に、
はやくもカマキリの産卵が確認された。
たしか、昨年のカマキリの産卵の初確認は
10月10頃だったから、
20日間ほど早い。
その昨年の卵たちは、
冬の間理科室で過ごした。
そして今年の春になって、
無数の子どもたちが飛び出してきた。
その日は、教室は大騒ぎになったのを思い出す。

あれから1年。

またカマキリが産卵を始めた。
生態系のサイクルは、
まるで正確な時を刻む時計のようだ。
きっと春には、
また元気なカマキリたちが飛び出してくるのだろう。

そう思っていると、
今日、その生き物コーナーで大スクープがあった。
カマキリがちょうど産卵を始めたのである。
発見者は、いつも休み時間毎に
観察したりお世話をしたりしている仲間たちだった。
この大スクープを
やや興奮気味に担任に伝えにきてくれたのだった。
見ると、
産卵はまだ始まったばかりらしく、
泡状の白い固まりはまだ小さい。

しばらくして、(授業を終えて)
再び、数名の子と様子を見に行く。
カマキリは、まだそこでじっとしていた。
泡状の固まりはやや大きくなっていた。
ながめながら、
子どもたちは写真を撮っている。
「産卵にはどのくらいの時間がかかるのか」
「産卵が終わったらカマキリはどうなるのか」
「自然界での産卵だったら敵から身を守れるのか」
などという疑問も次々とわいてくる。
そのうち、
通りすがりの子どもたちも
何事かと集まって、
即席昆虫観察会となった。

担任自身、このような場面に遭遇したのは初めて。
子どもたちのおかげで
わくわくする気持ちをたっぷりと味わわせてもらえた。

帰宅して、ふと、この日のことを思い出した。
そして、こんな思いが頭をよぎった。

テストにはよくこんなのがよく出題される。
(例)この写真はカマキリの産卵の様子です。季節はいつ?(秋)
   カマキリはどんな姿で越冬するか?(卵) など
きっとこの子たちは、
こんな問題を軽々と解いてしまうのだろうな。
いや、こんな体験をしていない子だって正解できないわけじゃない。
場合によってはこの子たちの方が間違えてしまうかもしれない。
だとしたら、
そんなことをテストで問うことに、一体、どんな意味があるのだろう。

おそらく、この出題の意図は、
自然への興味関心をもつこと、
季節との関連で昆虫の生活をとらえること、
などといったものだろう。

もちろん、
それを「知識」として知っている事は、それ自体大事なことではある。
それならそれで、
「知識」として問う(知っておく)べきことは
もっと別にあるような気がする。
(いつごろ、どこにいけばカマキリの卵は見つけられるか とか)
その「知識」があれば、
その後の豊かな自然体験につながるからである。

もしも、本当に、テストで
自然への興味関心をもつこと、
季節との関連で昆虫の生活をとらえること、
などといったことを問いたいのであれば、
例えば、
カマキリの産卵にはどのくらいの時間がかかるか、とか、
去年の産卵は10月15日だったが、今年はいつごろと考えられるか、とか
まさしく、
あの即席昆虫観察会に集まって、そこで語り合っていた内容のようなことが
問われるべきではないか、
と思ったりもした。

いずれにしても、
自然への興味関心態度などは、
どんなに出題の形式を工夫したとしても、
テストで問うものとは異質なものである、ということか。
これが、とりあえず、この日の結論。…
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クライマックス

国語「一つの花」のクライマックス。
今日は、いよいよ、
出征する父がゆみ子に一輪のコスモスを手渡す場面。

この場面でのお決まりの問いは、
「父はどんな気持ちでゆみ子にコスモスを手渡したのだろうか」
というようなものであろう。

その問いの向こうにある「ねらい」は、例えば、
単に、ぐずるゆみ子を泣き止ませるためではなくて、
最後ぐらいは笑顔を見せてほしい、笑顔で別れたいという切ない気持ち、だとか
何も満足に与えることができなかった父ができる精一杯のことの表れ、だとか
ゆみ子の幸せを願う気持ちを一輪のコスモスに託した父の姿、だとか
今は一輪分の幸せだけれど、それを育てることで無数の幸せになること、だとか
といったものである。

今日の授業でも、そのねらいはおおよそそのあたりにあった。
ただ、
その問い方はやや違う。

国語に限らず、どんな授業でも、
そこには子どもにとっての矛盾が大切である。
矛盾を感じたとき(矛盾が明らかになってきたとき)、
子どもは、自ら、その矛盾を矛盾でなくそうと動き出す。
「主体性」というのはそういうときに発揮されることが多い。

では、この場面での矛盾は何か。

一輪のコスモスを手渡すちょっと前にこんな叙述がある。
「母さん、ぜんぶおやりよ、おにぎりを。」
最期を覚悟してお別れする駅で、ぐずるゆみ子を見て父が言った言葉である。

ここで父は、
「ぜんぶ」おやりよ、といっているのに、
その直後には、
コスモスを「一輪」しか手渡していないのである。
ましてや、
「配給」の、とても大事なお米でこしらえた「おにぎり」は「ぜんぶ」で、
ホームの端っこで、わすれさられたように咲いていた「コスモス」は「一輪」だけ。
子どもにとって、これほど矛盾に満ちたことはない、はずである。

こう踏んで授業を作ってみることにした。

まずは、「ぜんぶおやりよ、おにぎりを」の場面での
父にスポットを当てた。
子「泣き顔を見たくなった」
子「お母さんも泣き顔を見せたくなかった」
子「『一つだけちょうだい』と言っているのがかわいそうに思えた」
子「ゆみ子を喜ばせたかった」
子「笑顔が見たかった」
などと言う意見が出てきた。
ここで「ぜんぶ」あげてしまってもかまわない、という状況を
みんなが共有できた、と判断。

そして、担任の出場。
「ぜんぶ」あげてもいい、そうだねえ。
だったら、コスモスも「ぜんぶ」あげてもいいのにねえ。

すかさず、子どもたちの手が勢いよく挙った。
子「そこには一輪しかなかったんだよ」
子「一輪あれば泣き止むからだよ」
子「その一輪を大事にしてほしかったのではないかなあ」
子「きっと『一輪』というのに意味があるのだと思う。今はまだわからないけど。。。」
子「ぼく、わかる!『わすれさられたコスモス』だから、なんだかお父さんみたい」
子「冬も耐え抜いてがんばってきたコスモスだから、ゆみ子もがんばって!っていうのかな」
子「種だって残すから、あとでどんどん増える楽しみもある」
子「そうか!『一輪』の意味がわかったよ」
 「ぼくは、お父さんをずっとわすれないでってことだと思う」
子「わたしは、コスモスのように成長してねということだと思う」
子「ぼくは、次は君ががんばる番だよ、という意味だと思う」
子「『ひとつだけちょうだい』とか、数が大事なんじゃなくて、
  心のこもった物に感動するという気持ちをもってほしかったのだと思う」
一つの意見が、また次の意見を呼び、
新しい考えが浮かんだ子たちが次々といすから立ち上がり、
まさしく、4の1には、
意見の花が一面に咲き誇っていったのである。

その時、担任は、
ある先輩教員がこういっていたのを思い出していた。
対立の構図で深まる授業もあるけれど、
付け足し、付け足しで深まる授業もある、と。

深まりとは、
問いの向こうにあった「ねらい」、例えば、
最後ぐらいは笑顔を見せてほしい、笑顔で別れたいという切ない気持ち、だとか
何も満足に与えることができなかった父ができる精一杯のことの表れ、だとか
ゆみ子の幸せを願う気持ちを一輪のコスモスに託した父の姿、だとか
今は一輪分の幸せだけれど、それを育てることで無数の幸せになること、だとか
といったものを通過し、
さらに、その奥にある
「一つの」の意味するところを見抜き、
それが「花」でなければならなかったことを射抜いていった深まりのことである。

思えば、この題材に入った日、
教生先生とみんなとで「一つの花」の題名読みをして学習をスタートさせた。
その時と、今とでは、
作品の読み方がきっと違ってきているだろう。

そして、もう一つは、
4の1みんなの深まりである。
学習は一人一人に成立するものではあるけれど、
学級という集団のもつ力は決して無視できないのである。
一人では決してここまでたどりつけなかっただろうとも思う。

もちろん、担任だって、たったひとりで、
ここまで教材を分析できるような力などない。
子どもたちの読みに感服したのである。

今日は、
「おにぎり」はぜんぶあげてもちっとも惜しくないのに、
「コスモス」は一輪しかあげない、という
この矛盾に満ちた父の姿が、
子どもにとってかけがえのない教材となった。

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パワスポ

4の1古い道具博物館が開館した。
場所は、4の1前ワークスペース。
そこにならぶ古い道具たちの一つ一つが
今、絶大なる存在感を放っている。

そのそばに立つと、
当時の人々の細やかな息づかいが感じられるととともに、
数々の優れた知恵にも気づかされる。

そっと手にとると、
日々のくらしの厳しさを知ることができるとともに、
それにも負けないたくましさも伝わってくる。

じっと見つめていると、
その周辺で起こっていただろう日常の出来事までもが目に浮かぶとともに、
長年使い込んできたものへの愛着を再認識させられる。

4の1古い道具博物館。
年月を経てもなお、
今もこうして存在する古い道具たち。
そこに居るだけで、
その存在そのものへの感謝と畏敬の念が、
たちまち自分の体を包んでしまう。

自分にとってのパワースポットは
もしかしたら、ここなのかも。

追記
その力に惹き寄せられるように、
今日の昼休みにはたくさんの友達が来館してくれた。
チケットは売り切れ、
パンフレットは増刷し、
館内には人の波が押し寄せた。
4の1のみんなもそれぞれの持ち場で大忙し。
「先生、大繁盛です」
「先生、こんなに来てくれてうれしいです」
「先生、人が多すぎて肝心の道具が見学できません」

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