落葉松
国語「手と心で読む」のつづきのつづき
授業参観のあとの授業では、
このような授業に取り組んでみた。
主な発問はこのようにしてみた。
「お母さんは、なぜ北原白秋さんの詩『落葉松』を選んだのか」
子どもたちは、直感で次のように応えた。
本当は八題目(八つの連)まであるらしいから、そこまでがんばらせたかったから。
読み進める楽しみがあるから。
作者の北原白秋さんも、もしかしたら、同じ境遇だったのかもしれない。
これらは直感とはいえ、
極めてたくましい想像力であり、
そう考えてみるだけで、この資料の面白さをより豊かにしてくれる気がする。
そこで、
北原白秋さんの基礎的な資料と、
『落葉松』の全文のコピーを配布した。
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
この『落葉松』、
4年生が読むには表記自体なじみのうすいものであり、
内容もかなり難解である。
それでも、
子どもたちは言葉に対する感覚を最大限に研ぎすませて考えた。
そのいくつかを記録しておく。
「また細く道はつづけり」だから、
人生は先が長いよ、と言いたかったんだ。
「わが通る道はありけり」だから、
目が見えないからこそ見えるものがある、ということだ。
「ほそぼそと通ふ道なり」だから、
少しずつ挽回するという気持ちだ。
「さびしかりけり」で始まって「うれしかりけり」で終わっているから、
最初は寂しくて後で楽しくなる大島さんのことと同じだ。
「浅間嶺」と書いてあって山の頂上に登る感じがするから、
その頂上には明るい光が待っている感じがする。
そうだね。ぼくも浅間嶺を超えろって感じがする。
最後の「からまつにはからまつのかぜ」と書いてあるから、
それは、大島さんにとっての「追い風」になると思う。
こうして、
「落葉松」という詩そのものに込められた意味や
「落葉松」という詩を送った母の気持ちや
「落葉松」という詩を受け取った筆者の気持ちなどを
多様に読みすすめていったのである。
国語の時間は、あっと言う間に過ぎていった。
子どもたちの意見は、
どれもまぶしいくらいに光っていた。
この単元は、
本来ならば、
「調べて発表しよう」という、カテゴリーでいうならば「話す 聞く」の単元であり、
このような授業展開は、
イレギュラーであると言わざるを得ない。
明らかに、北原白秋さんの詩「落葉松」を読み深めるような題材ではないのである。
ましてや、
上記のように
「落葉松」の主題となっているところと、
本資料の文脈とを
重ね合わせて読み深めていくというような単元ではない。
しかし、
本資料の筆者の思いや、登場人物としての母親の心情、
その両者の心の通い合い、そこにおける「落葉松」のもつ意味、
そして、その後の人生、などという点を鑑みると、
これを、
「調べて発表しよう」という内容で扱うには、
あまりにも表面的すぎる、とも思えてしまうのも事実である。
いや、むしろ、
これは「話す 聞く」のカテゴリーで扱うべきではないのではないか、
とさえ思えてくるのである。