空気の対流

今日から卒業式の全体練習。
体育館の外では雪が散らついていた。

そんな寒い体育館では、
在校生が集まって、
大きな声で呼びかけを練習したり、
美しい声で歌を歌ったりした。

休憩の時。
空中に羽毛がふわふわと浮かんでいた。
落ちそうで、なかなか落ちてこない羽毛に、
みんなは視線を集めた。
手を伸ばして取ろうとすればするほど、
その羽毛は、さらに上昇していった。

その動きを見て、子どもたちは言った。
「やっぱり温かい空気は上にいくんだ」
「みんなの体温であたたまった空気が上昇してるから、
 羽毛もその空気に流されてる」
「ほら、向こうの方にいったら、
 こんどは落ちてきてるでしょ。冷えて落ちてくるんだ」

これは、なかなかおもしろそうな実験になりそうだ。
水の対流なら、教科書では「コーヒーの出しがら」などを用いている。
空気の対流なら、「線香のけむり」だろうか。
しかし、
「線香のけむり」は、限られた容器の中を
部屋に見立てて行うもの。
実際の部屋の中の対流を確認するには不向き。

実際の部屋の空気の対流を
よりダイナミックに、視覚的にとらえるには
これ=羽毛がよいのかもしれない。

その分量はどのくらいがよいのか、
どの羽毛が適しているのか、
気温はどのくらいの時がよいのか、
などなど、
この材が教材になる可能性を確かめてみたいと思った。

そう思っているうちに休憩時間が終わった。
体育館では、再び、卒業式の練習が始まった。
漂っていた羽毛は、どこへ行ったかな。…
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おはようございます×2

朝、担任が教室に入る時、
必ずと言っていいほど、
全体に向かって
「おはようございます」「おはようございます」
と2回言う。

2回言わなければならない理由は、
1回目の「おはようございます」では、
ほとんど返事が返ってこないからである。

そこで、2回目の「おはようございます」を担任は言う。
すると、今度は元気な「おはようございます」が返ってくる。
1回目の「おはようございます」が聞こえていないはずはない。
2回とも、同じように大きな声で言っているからである。

では、なぜ、1回で返事が返ってこないのか。
その原因を子どもたちの中に見出そうと、ずっとしてきた。

しかし、
その原因は、実は、担任の方にあると思うようになった。

その原因、ひとつめ。
それは、「全体に向かって」言っていたこと。
あいさつの基本は、やはり1対1。
それなのに、担任は、誰とも言わず
「全体に向かって」言っていたのである。
これでは、子どもにとっては、
周囲の雑音の一つと同じようなもの。

その原因、ふたつめ。
それは、「大きな声で」言っていたこと。
確かに、教室で挨拶をするのだから
大きな声で言わなくてはいけないのだが、
結局はたった一人にすら伝わっていない。
目の前の一人一人に、
小さくてもしっかりとした声で挨拶をすることの方が
大事なことなのだと思い直した。

朝、担任が教室に入る時は、
目の前の一人に向けて
小さくてもしっかりとした声で
「おはようございます」と言おうと思う。…
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ごめんなさい

昨日の昼休みに
クラス対抗フットサル大会が行われた。
4の1は、健闘及ばず敗退。

掃除を終えて教室に戻ると、
黒板に大きく
「ごめんなさい」の文字。

教室の席を見回すと、
みんなの表情はどんよりと暗い。
今にも泣き出しそうな子もいる。

静かに挨拶をして授業を始める。

担任 「『ごめんなさい』って、何がごめんなさいなの?」
子   (しーん)

担任 「もしかして、フットサルの応援に行っていた、あなたの気持ちですか」
応援団「書いたのは自分ではないけれど、
    自分ももっと応援していればよかったと思うから、
    ごめんなさいの気持ちです」

担任 「では、選手だった、あなたの気持ちですか」
選手 「自分も書いたわけではないけれど、
    せっかくみんなが応援してくれたのに
    負けてしまって、1点も入れられなくて、
    ごめんなさいの気持ちです」

担任 「では、応援した人も、選手の人も、
    みんな、今、『ごめんなさい』と思っているのね」

しかし、本当は、だれも「ごめんなさい」ではないはず。
選手たちは、誰一人として、手を抜いて戦っていた子などいない。
時間いっぱい、必死にボールを追いかけて力一杯走っていた。
応援団もそうだ。
昼休みにもかかわらず、全員が体育館に集合し、
選手達の活躍を大声で応援した。
中には、お手製のうちわを両手にもってがんばっている子もいた。
頭には、ハチマキもくくられていた。
こんなみんなに「ごめんなさい」といわなければいけない理由などない。

ある子の日記にはこう書いてあった。(略文)
「わたしは初めて選手に選ばれた。
 試合前はどきどきした。
 試合中はボールを追いかけて一生懸命走った。
 でも、1点も入れられなかった。
 応援しに来てくれたみんなに
 ごめんなさい、の気持ちだった。」

思えば、
前学期のドッチボール大会。
あの時は、4の1が見事優勝だった。
そして、あの時も、
今日と同じように、
黒板に大きな文字が書かれていた。
その文字は、「ありがとう」。

それを書いた主は、
選手たちではなくて、
選手に選ばれなくて、
悔しい思いをしていたはずの、
応援組の子たちだった。

その「ありがとう」は、
自分たちのために
一生懸命に戦ってくれて「ありがとう」だったのだ。

それを目の当たりにした選手たちは、
すかさず
「応援してくれたみんなのおかげです。
 ありがとう」
というメッセージを残していた。

あの心の交流から、数ヶ月。

今回だって、
「ごめんなさい」ではなくて、
やっぱり「ありがとう」なのだと
担任は思う。…
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自作電球

理科「もののあたたまり方」では、
アルコールランプの他に、
電源装置も使う。

その電源装置を見て、ある子が、
「あ、これならできるかも。。。」と
つぶやいた。

翌日、その子は、
クリップと、耐熱ガラスのコップと、科学図鑑を手に登校した。
そして、あるページを開いて、
「先生、これ、試してみたいのですが」と見せてくれた。
そこには、シャープペンシルの芯に電気を流すと、
電球のように明るく光る、という説明があった。

給食の準備をしている傍らで、
その再現を試みる事になった。
シャープペンシルのBの芯を
別の友達が快くさし出してくれた。
準備をしっかりして登校してきていたので、
装置はあっというまに整った。

スイッチ、オン。
まず、けむりが出る。
けむりが出なくなったら、もう少し電圧を上げる。
すると!!
ピカーッ!!
見事に電球になって、明るい光を放った。
歓声をあげている子や、
息を飲んで見つめている子がいた。

約10秒後、その芯は燃え尽きて、明かりは消えた。
自作電球は、その点灯時間は短かったが、成功だった。

思えば、
近頃の理科の授業では、
なぜか電源装置はほとんど使わなくなった。
モーターを回したり、電磁石を作ったり、何かの回路を作ったり、
電気工作好きの子たちにとっては、
とっても魅力のあるものなのに。
電気工作をしていると、どうしても、
もっと電圧がほしくなったり、
もっと長い時間作動させたくなったりする。
そんな時、子どもたちは、まずは、
乾電池の数を増やしたり、
3つ4つと直列につないだりしてなんとかする。
そのうち、結線部分が怪しくなって、修理が絶えない。
(3年理科の段階では、このような経験をたっぷりと味わっておくのがよい)
それに比べて、電源装置は便利だ。
恒に、一定の電気を供給してくれる。
必要であれば、少々、高めの電圧も試すことができる。
正しい使い方さえ守れば、安全でもある。
4年理科では、どんどん電源装置を扱っていくとよいと個人的には思う。

その電源装置を見て、どこかで、ある子が、
「あ、これならできるかも。。。」と
つぶやくことがあるのかもしれないのだから。

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ごんぎつね3場面

昨日の授業参観で
する「予定」だった国語「ごんぎつね」の授業を
1日遅れで、今日、行う。
これが、60分にもおよぶ授業というドラマになった。

ごんぎつねは、言わずと知れた
4年生の題材の中でも屈指の名作。

独りぼっちがゆえにいたずらばかりしてしまうごんが、
ある日、兵十にしていたずらをしてしまう。
同じ頃、兵十のお母さんの葬列に出くわしたごんは、
自分のいたずらのせいで、
兵十のおかあさんに大好きなウナギを食べさせることができずに
死なせてしまった、と思い込む。
そのつぐないをしようと、イワシやくりや松茸を
そっと兵十の家に運ぶ。
そうとは知らない兵十は、
くりを運び込んだごんを火縄銃で撃ってしまう。
そこで初めて、
兵十は、くりや松茸を運んでくれたのはごんだったことを知り、
ごんは、そのことに気付いた兵十にこくりとうなづく。
それまでずっとすれ違いの多かった二人が、
最後の局面でようやく分かり合える、という、
悲しいお話なのか、
心が通じ合えてよかったというお話なのか、
考えさせられることの多いお話。

そんな6場面からなるお話の、
今日は3場面。
イワシを投げ入れたり、
くりや松茸を裏口に置いていったりする姿が印象的な部分。

授業前の構想はこうだった。

まず、イワシを投げ入れたときのごんの気持ちを考える。
.まず一ついいことをした。…
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今、何時?

今、何時?
そうね、だいたいね。
今、何時?
まだ、早い?

懐かしい唄のフレーズではないが、
こんな会話を、今日は何度したことか。

実は、先日から、教室の時計が止まってしまっている。
ふと時計を見ると、
いつも止まっているから、
なんだか都合が悪い。
そう感じながら過ごした1日だった。

しかし、
そんな時計の止まった暮らしをしているうちに、
みんなの動きに、ある変化が見られてきた。

授業を始めようかと教室に戻ると、
。。。
もうほとんどの子たちが着席しているのである。
いつもなら、担任の一声であわてて座るのに。
おかしいな(いいことなのだけど)、と思いつつ、
そのまま授業を始めた。

次の授業になって、また、教室に戻ると、
。。。
なんと、、もうほとんどの子たちが席に座っている。
まだ、休み時間は3分くらいあったのに。

あ、そうか。
今日は、教室の時計が止まっているせいかもしれない。
時計が止まっているものだから、
逆に時間が気になってしまったのかもしれない。
時間が気になるあまり、
うかうか遊んでもいられず、
そろそろ座って待っていようかな、
と考えたのかもしれない。

そう思っていると、
遠くの方からある子が、
「先生、今、何時?」
と聞いてきた。

時計の止まった暮らしもよいかもしれない。… 続きを読む...