続:ちいしゃんのかげおくり4場面

(前回からのつづき)
いよいよ、話し合いの佳境がやってきた。
話し合いでは、この転機こそが重要だと兼ねてから思っている。
今回、その転機はこの発言が契機となった。

「『きらきらわらいだしました。』の所も
 『死んだ』ことを表していると思います」
担任は、この発言に、
子供たちが立ち向かうべき矛盾があると踏み、
主題へとシフトすることを決める。
「なぜ『わらう』ことが『死ぬ』ことなの?」
「ちいちゃんは、死んだのによろこんでいるの?」

死ぬことはつらいこと、
そうであるはずなのに、
きらきらとわらうちいちゃん、
死ぬことは悲しいこと、
そうであるはずなのに走り出すちいちゃん、
これほど矛盾に包まれた叙述はない。

子供たちは、この矛盾は決して矛盾ではないことを
次のようにして解き明かしていった。

「お母さんに会えたからうれしかったのではないか」
「家族みんなと会えたからではないか」
「戦争というつらい世界よりも天国へ、と思ったのではないか」
「平和な世界、安全地帯という感じなのではないか」
「もう一人ぼっちではないからつらくないのではないか」
「天国で、家族一緒にかげおくりができるからではないか」
「ということは、お父さんもお母さんもおにいちゃんも
 場所は違うけど、みんな死んでしまったんだ」
「自分が死んでいることにすら気付いていないのではないか」
「いや、戦争の方がゆめであってほしいと思っていたのではないか」

子供たちの発言は、どれも、
どこかしらしっとりとしたものがあった。
決してちいちゃんの死を美化するわけではなく、
悲しいけれども救いを見いだすちいちゃんを
ありのままに見つめていたように
担任には思われた。

時間は、やはり60分を超えようとしていた。
これで最後に、と思って指名した子がこういう話をした。
「わたしのおじいちゃんに聞いた話だけれど、
 戦地で亡くなった人は、
 たった一枚の手紙でそれを知らされるだけだったそうです。
 残された家族は、それしか受け取ることができなかったから、
 そんな家族もとってもくやしくて悲しかったと思います。
 そういうことから考えると、
 ちいちゃんも、
 ちいちゃんの家族も、
 みんな一緒に会えたから、もしかしたら、
 それでよかったのかもしれないと、今、思っています。」

大切なお話をご家族の方と話されていること。
こうして、今自分の命があることを知ること。
3の1教室でその話を語りかけてくれたこと。
大きな余韻を残して授業が終わった。