ちいちゃんのかげおくり4場面

日に日に、秋の深まりを感じるこのごろであるが、
国語「ちいちゃんのかげおくり」も、
場面を追うにつれて、ぐっと読みが深められている。
そんな3の1のみんなに圧倒されっぱなしで、
気がつけば、4場面まで進んできた。

今日までに、4場面の書き込みを終えていて、
いよいよ、本題材の中心的な部分となる4場面の話し合い。

号令を終え、
黒板に「4場面」と書くやいなや、教室からは
「ここ、かわいそうだよね」
「ちいちゃんが死んだんだよね」
というつぶやき。

すかさず、
「なんで『かわいそう』なの?」
「ちいちゃんが『死んだ』とは一言も書いてないよ」
と担任。
すると、さらにすかさず、
「はい!はい!」
「だって!」
と子どもたち。

話し合いの課題は、こうして一瞬で決まった。
(というか、あらかじめ担任は
 「ちいちゃんが「死んだ」ということがどこからわかるか」
 という出だしの課題をもって臨んでいたが、
 そこに、思わず子どもたちの
 「ちいちゃんが死んだんだよね」
 とういうつぶやきが投げ込まれたことによって、逆に担任は、
 「『死んだ』などとは一言も書いてないよ」
 と、自分の想定とは正反対の切り返しをせざるを得なくなり、
 それでもそれが、子どもの考えてみたいこと合致していったのだが、
 言い方は違えども、結局、学習活動としては同じことで、
 授業の課題というのは、
 いつも大人の教師が思い描いているようにはでてくるものでなく、
 やはり、子どもの言葉で設定されるのが理想というもので、
 でも、それは子どもまかせではいいというわけではなくて、
 どこからでも感想をいってごらん、と授業をスタートさせるとか
 あるいは、出たとこ勝負でなんでもこい、とかでは、
 よほど熟練した教師でない限り。。。。。
 いや、熟練した教師ほど、この授業の立ち上げには
 緻密な想定をもっているもので。。。。
 今回の私の場合も、
 子どもの言葉でそれを想定できなかった精度の甘さがあったわけで。。。
 (ひとりごと、ひとりごと。。。)

さて、
窓口となる課題が決まれば、
子どもたちは堰を切ったように
どんどん思いを出してくる。

子どもたちが「死」を暗示していると感じた叙述とそのわけは
例えば、
「体がすうっとすきとおって」
(足が地面から離れたということは天国に行ったことを意味するから)
「空色のお花畑の中に」
(現実は戦争で焼け野原になっているのに「花畑」だから)
「小さな女の子の命が、空に消えました」
(「消えた」というのは「無くなった」「亡くなった」ことだから)
などだった。

途中で
その「小さな女の子」というのはちいちゃんのことだという意見も出る。
驚かされたのはその次の発言。
なぜ「ちいちゃん」と作者は書かなかったのかわかるよ、
という言いながら挙手した子がいたのだ。
思わず、その真意を聞いてみたくなった。
すると、
「死んだのは、ちいちゃんだけではなかった。
 戦争ではたくさんの子供たちも死んでいったと思う。
 だから、作者は、
 それほど戦争はひどいものなのだ、と伝えたかったんだ」
それに続いて、
子どもだけじゃない、たくさんの大人もそうだった。。。
という意見も続いた。

いよいよ、話し合いの佳境がやってきた。
話し合いでは、この転機こそが重要だと兼ねてから思っている。
今回、その転機はこの発言が契機となった。
(つづく)