2の2編 恒例のお花見

附属小恒例のお花見。
開花までちょっと早いが、
この陽気に誘われるようにして
1年、2年、6年が
呉羽山へと出かけていった。

2年生の出発時、
担任の先生がこうおっしゃった。
「桜は咲いているかなあ、どうかなあ」
すると子どもたちは
「咲いているよ」
「まだ咲いていないよ」
と別々の反応を返してきた。
その担任の先生はそれを受けて、
「では、それを確かめてこようね」
と投げかけた。

それから約1時間ほどのお花見から戻ってきて、
再び、
最初の問いに戻った。
「桜は咲いていたかな、どうだったかな」
すると子どもたちはこういう反応を返してきた。

「う〜ん、少しだけ、咲いていたよ」
「そう、もう少しで咲きそうだったよ」
「つぼみなら、このくらい(手で膨らみを作りながら)になっていたよ」

子どもたちの、この見事な話しっぷりに
思わず感嘆の声を挙げてしまった。

「咲いていたかどうか」という問いに対し、
YES=「咲いていた」
NO =「咲いていない」
のどちらでもない解でもって答えてきたのである。
しかも、
その解の方が、
事実を正確にとらえた「正解」なのである。
そんな新たな解を導き出した2年生の子どもたちだった。

この一連のできごとには、
実は、
授業の構成ととてもよく似ている所がある。

まず、最初の課題。
この最初の課題で
「咲いている」「咲いていない」の対立の構図を作りだすこと。
こうして、子どもの心に火をつけていく。
最初は興味の薄かった子も徐々に渦の中に入ってこれるようにする。

次に、ものとかかわる場。
課題の答えはすぐに与えず、
自分たちで確かめる場を作ること。
今の場合は「お花見に行く」ということになるが、
授業であれば「実際に試す」とか「書く」とか「調べる」といった活動がここに当たる。
この時、なぜするのか、という目的意識が大切で、
それがあいまいだと、俗に
活動あって学びなし、と言われる状態となる。

最後に、答えの導き方。
AかBかと問うて、
その答えはAでもBでもない、Cであること。
もしもAかBかと問うて、
結局、答えがAかBのどちらかだったときというのは、
それはそれでよいのかもしれないけれど、
なんとなく物足りなさが残ってしまうのである。
そうではなくて、
AでもBでもない、Cが、
子どもたちの手によって生み出されたときの授業には、
学びがいという充実感があふれている。
しかも、子どもたちにとってそのCは、
どんな正解よりもリアリティがあるのである。

「学ぶ喜びというのは、
 本来、そういうものなんだ。」

教え込みがなぜいけない?という大人の質問に対して、
子どもたちが、そう答える声が聞こえてきそうだ。

やはり私たちの務めは、
子どもたちが日々新しいものに出会っていく授業を、
(毎日は無理でも)ひとつでも多く創っていくことか。

前の記事

5の1編 命のカプセル

次の記事

5の1編 3粒という条件制御