義務教育におけるフィールドワーク

 「義務教育におけるフィールドワーク」。先日のFENICSの会合では、これがひとつのテーマとなっていました。私は「南極」というフィールドでお話をする立ち場にありました。ただ、ちょっとした違和感も感じていました。フィールドワークというと、野外に出て行って調査を繰り広げるというイメージが先行しがちですが、「義務教育における〜」となると、ちょっと考えさせられてしまったのです。

    迷子石(南極昭和基地)

    

 確かに、小学校理科では子どもたちと一緒に野外に出て、草花を観察しり、昆虫を採集したり、時には小川で淡水魚を捕まえたり、夜に集まって星空観察会を行ったりすることがあります。また、授業者自身が化石を採集してきてそれを教材とすることもあるでしょう。いずれも、「義務教育におけるフィールドワーク」に違いありません。「南極派遣教員」としての経験は、まぎれもなくフィールドワークそのものだったと言えます。

 しかし、フィールドで出会う草花や昆虫や淡水魚や星や石が、すぐに子どもにとっての教材になり得るか、というとそうとは限りません。例えば、小川でナマズとメダカが同時に捕獲されたとき、なぜ一緒にいるの?食う食われる者たち同士なのに。。。という矛盾に出会うことではじめてそれらは子どもにとっての教材となり得るのだと思います。

 南極にいるときによく目にした「迷子石」もその一例です。「迷子石」の存在自体はかなりインパクトがあり素材としての魅力は満載ですが、それだけではいわゆる「びっくり教材」の域を出ません。それがもしも海岸線付近で見られたとしたらどうでしょうか。学校では、上流の石は大きくてごつごつしていて、下流では小さくて丸くなっていることを学びます。ところが南極では海の近くの場所でこんな大きな石が存在します。それが、子どもにとっては大きな矛盾となり、問いとなって、解決の原動力となっていきます。「迷子石」はそこではじめて教材となったと言えるのです。子どもはすでにどんな先行経験をもっていて、どんな素朴概念を形成していて、それらに対してどんな事象が矛盾となって映り、そこにどんな問いが生まれるのか。子どもを知らなければ、どんなフィールドワークも空振りに終わることでしょう。

外へ外へと向かうフィールドワーク内へ内へと向かうフィールドワーク

 「義務教育におけるフィールドワーク」とは、決して外向きなものばかりではなく、本当はかなり内向きのものなのかもしれません。「子ども」というフィールドにどれだけ深く入り込んでいけるか、その存在をどれだけ理解できるか、彼らに対してどこまで謙虚になれるか、それが義務教育に関わる授業者には求められているような気がします。