見方を変えれば

子「わあ、きれい。」
子「ほんとうだ、きれいだねえ。」

教室の窓際で、
小さな歓声があがっている。

桜の花も葉桜にかわった今ごろ、
いったい何を見ているのだろう?
そう思って窓際に近づくと、
眼下の低学年遊び場の藤棚の藤が、
満開直前まできているのがわかった。
なるほど、歓声のわけはこれか、と思った。
確かに、桜に負けず劣らずきれいである。

子「先生、見て見て。きれでしょ。」
T「藤の花ですね。きれいな紫色ですね。
  これからどんどん下に垂れていって
  もっときれいになると思います。」
子「ふ〜ん。」

おそらく、そんな花の名前なんて
どうでもよかったのだろう。
これから先の事を勝手に先回りして聞かされたって
よけいなお世話だったにちがいない。

次にその子が言った言葉はこうだった。
子「これまで下からしか見たことがなかったけど
  上から見たら、なんか特別きれいだ。」

3年生になって、
教室が2階になって、
これまで毎年見ていたものが、
まるで違うもののように思えた感動を、
ただ素直にこの子たちは語っていただけなのだと、
初めて知った。

「先生、見て見て。きれいでしょ。」
ちょっとでも見方がかわることで、
そこに大きな感動が生まれる。
学ぶ喜びが感じられる。

やはり、
子供の心が揺れるその「もと」を知らなければ
授業はできないと自覚させられた。

連絡
宿題  :算数プリント
     漢字の学習
     漢字ミニテストの勉強(範囲は漢字の学習p2~P9)
持ち物 :体操袋
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