小さな科学者

「子供は小さな科学者」とはよくいったものだ。
ただし、それは、
決して自分一人だけではなり得ないことだと思う。

先日の、モンシロチョウの卵。
そこから、幼虫が飛び出した昨日の午後。
この瞬間を見逃してはならないと、
急遽、70インチ大型モニターで、
その一部始終を映し出す。

子供たちはそのライブ映像に釘付けとなった。
「わあ、すごい、すごい!」
「わたし、虫はきらいだけど、とってもかわいい!」
「がんばれ、がんばれ、あと少し」
卵から半分だけ体を出した幼虫に、
教室中で心からの声援を送った。

しばらくして、卵から完全に飛び出した。
すると、今度は、
「幼虫は、自分の卵のからを最初に食べる。」
という知識を、この目で確かめたいと願った。

しかし、幼虫はなかなか卵の方に向きを変えない。
「こっちだよ」
「うしろを向いて」
再び、教室中から心からの声援が送られる。
自然は自分の思うようにならないことを知り、
そこに、いくらかのはがゆさも感じたことだろう。

帰りの準備をしながら待つこと数分。
「あ、今、卵のからを食べた!」
「やったあ!」
(少なくとも、映像ではそう見えた)
「やっぱり本当だったんだ、卵のからを食べるって」
再々度、教室が騒然とした。
世紀の一瞬をとらえた!という発見の喜びに浸った。
そのとき、子供たちは小さな科学者となっていた。

興奮は冷めやらず、
放課後になっても、大型モニターの周りに集まる子がいた。

担任は思う。
これまで、さほど意識していなかったものが
ものすごいこととして意識されることの尊さを。
それこそが、学ぶことの楽しさではないかと。

見えていたつもりだったものに、
見えていなかった何かが見いだされていくことの力強さを。
それこそが、学んだことに力を与えることではないかと。

誰かと点数を競い合い、
勝った、負けたで一喜一憂すること。
○○メソッドとかいうもので、
できることを確実に増やしていきましょうという学力の保障。
その時代の流れは、
こんな3の1の子供たちの姿を
どう意味づけることができるのか。

そう思っている矢先に、
モンシロチョウの幼虫に釘付けになっている子供たちのその横を、
「このクラス、何してるの?な〜んだ、モンシロチョウのあおむしか。。。」
と通り過ぎる姿があって、複雑な気持ちになる。

いや、でもそれは、
決して子供が悪いわけではない。
そんな瞬間に立ち会えば、
共に感動を分かち合う仲間さえいれば、
だれだって、
いつだって、
小さな科学者になれるはずなんだ。
子供は本来、小さな科学者なのだから。
ただし、それは、
決して自分一人だけでは、やはり、なり得ない。

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