おもてなしの授業

南極授業が授業であるために50
(最終回)

今回の2枚で
シリーズ「南極授業が授業であるために」を
最終回としたい。

かなり個人的なことで恐縮だが、
かなり「個人的」な思いが
授業作りには大切だと思っている。

子どもとともにこんな授業を創り上げていきたい、
そう願い続けているところに、
教材はふと姿を現してくれるものなのだ。
セレンディピティの不思議な力は確かにあると思う。
それは、かなり「個人的」な思いのなせるわざである。

例えば、この2枚、
左が、我が故郷富山の河川、常願寺川に見られる大転石で、
右が、南極の露岩地帯にぽつんと置き去りにされた迷子石だ。
個人的に、ずっと見ていても飽きることがない。
だれかにとっては
ただ目の前を静かに通り過ぎていくものでも、
自分には、そこから授業が見えてくるのだ。
大多数の人の目に止まるかどうかなんて、
あまり関係ない。

授業づくりも、
最初から「大多数」のことなど考えなくてよいのではないか。

目の前の、
誰か一人のための授業があっていい、
たった一度だけの、
二度とできないような授業があっていい、と思うのだ。

近頃は、
「誰でもできる〜〜型授業上達法」のようなものがもてはやされている。
「再現性」のある授業事例こそが世の中のニーズ、と言わんばかりだ。
そんな授業で、子どもたちが本当に学ぶ喜びを味わえるのなら、
それでもよいのかもしれない。

ただ、往年の魅力的な授業には、
マニュアルには決して載らないようなノウハウがある。

マニュアルを越えた、
極上のサービスが
「お•も•て•な•し」と呼ばれるように、
授業にだって、
目の前の子どもたちにあうような
授業者の教育観を全身に込めたような
そんな精一杯の「おもてなし授業」があっていい。

南極授業が授業であるために。”