JARE54-「しらせ」ラミングの教材性

南極授業が授業であるために5

この手のコンテンツは、
一般的には説明的になりがちになる。
めずらしい映像ではあるけれど
子供の心に響くことに欠けることが多くなるのだ。

私がこのコンテンツを
南極授業の中で取り上げるには、
まずは、このハードルをクリヤーしなければならなかった。

まずは、砕氷航行「ラミング」を毎日のように繰り返す
しらせの姿に正対することからはじめた。

しらせの周囲には援護もない。
途中で故障するわけにもいかない。
どんな困難も乗り越えて行かなければならないのだ。

かと思うと、
しらせはあっさりと後戻りをすることもある。
夜には停船して状況を見定めるときもある。

今回はここに、
「しらせ」の生き様を見たような気がした。
すなわち、
「困難にぶち当たったときは、一度は後戻りもするけれど、
 決して、あきらめたわけではない。
 体制を整えてまた挑戦する」という姿だ。

しらせと正対しているうちに
しらせがなんともいとおしくなってきた。
同時に、
しらせという「素材」が「教材」になった、
とその時、思えた。

かつて、授業の先輩から、
「授業には授業者の意図や意思が込められることが大切だ」と教わったが、
それが、「素材」と「教材」の違いの一つだと思う。

もしも、私が、しらせと正対していなかったら、
このコンテンツは、単なる「素材」のままで
子供にとっての「教材」にはなり得なかったはずだと思うのである。”

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