ポスティングシステムのその後

いつか、ここでも紹介した
給食のポスティングシステム。

自分が食べられる量を事前に考え、
食べられそうにない分については、
あらかじめクラスに「ポスティング」し、
それを食べられそうな仲間が「落札=引き受け」て、
最終的には、クラスとしての残菜をゼロにする、というもの。

それを始めてから、
クラスの残菜は、ほぼ毎日ゼロ。
それまで、残菜記録ワーストワンだったクラスが、
生まれ変わったようになった。

だが、
その落とし穴とでもいうべき事態が明らかになったのが、
その日の話の主な内容だった。

あれから、
この制度(?)の成り行きを注視してきたが、
今のところ、
この制度に便乗(?)するようなことはなく、
一人一人の自制と規範意識をもって運用されている。

そもそも、ご飯などは一人一人の食べる量の個人差もあるので、
好き嫌いという「わがまま」な理由でなくても
残菜が出ることがあった。
ご飯の「ポスティング」は、
みんなにも人気があるので、
双方にとってよい効果があるように見受けられる。

一方、野菜系の「ポスティング」は、
「好き嫌い」系に入る。
人気のない野菜系については、
する側のルールとしては、
一口分でも食べる、丸投げは禁止、というのがある。
もらう側のルールとしては、
。。。。。。。。。。。。
ほとんどない。
ほぼ善意に頼っている、というのが現状である。

この「善意」というところがミソである。
「あと3人分くらいなんだけど」と呼びかけると、
「少しなら」といい出てくれる。
「ちょっと、待って。ぼく、食べれるかも」とがんばってくれる。
「ありがとう。○○くん!」と讃えてくれる仲間がいる。

まさしく「給食のポスティングシステム」は、
学級全体のおかげで成立しているのである。

しかし、大事なのは、
クラスとして完食することもそうだが、
最終的には、
一人一人が完食できるようになることのはず。

では、「ポスティング」する人には
どんな変化が見られてきたのだろうか。

それを如実に表した出来事が先日あった。

それは、奇しくも、またパン給食の日だった。
食パンが10枚以上、ポスティングされたのだった。
あいにく、この日は、
担任が午後から不在となるため、
その食パンをさばく働きかけができない日だった。
このままでは、大量の食パンが無駄に廃棄されてしまう。
担任は、
「今日は、ポスティングができない。
 なんとか自分でがんばれないだろうか。」
と突き返したかっこうとなった。
子どもたちは、そのほとんどを自分で引き取った。
つまり、自分で自分のパンの完食を目指したのだ。

この一件で、
子どもたちには、少しずつだが、
完食しようとする力がついてきている、
と感じることができたのだった。

本場、野球のポスティングシステムで、
来季の実績がどうなるかまだまだ未知数な選手の入札が
突き返されたかっこうとなったが、
それでも「完食」しようとする力こそが大事なはず。
そういう姿を、
来シーズンも見せてくれると思うと期待が膨らむ。

プロ野球選手は、やはり、小学生のあこがれだ。

前の記事

風を見た

次の記事

虹の通学路