道徳

今日の道徳の資料のあらすじはこう。

いとこ同士のAくんとBさんは、
休み中にプールや花火見学など、
素敵な思い出を作って過ごした。
別れる時は、互いに悲しい思いになった。
後日、Aくんは、
母親同士が電話で話しているのを聞いて
「Bさんにお手紙を書く」といっていたことを思い出す。
あわてて、はがきに簡単なメッセージを書く。
すると、今度はBさんから、
思い出のいっぱいつまった長々としたお手紙が届く。
Aくんは、それを読んで、
お母さんにびんせんをもらいに行った。

授業のねらいによっても違うが、
今回、中心発問としたところはここ。

なぜ、Aくんがお母さんにびんせんをもらいに行ったのだろう?
(「なぜ。。。」という問いが子どもの実態に合わないようなら
 Aくんがお母さんにびんせんをもらいに行ったとき、
 何を考えていたのだろう? でもよいかも。)

Aくんのこの行為は、一見したところ、とても矛盾に満ちている。
Aくんは、お母さんにびんせんをもらいに行って、手紙を書き始めたのである、
一度、Bさんにはがきを出したのに。。。

ここを問うことで、
子どもたちは、このAくんの行為に、
明らかに、それまでとは違う道徳性が働いていることを意識していく。
一見、矛盾に見えるこの行為も
その内面を追っていくと、そこには気持ちの道筋がちゃんとある。
一人ひとりが、その整合性を見いだし、つなげていくのが
道徳の授業のひとつの意味かな、
なんて思ったりもした。

さて、この中心発問を前提に考えるならば、
そこに効果的に向かうための補助発問はどうあればよいか。

Aくんは、お母さんにびんせんをもらいに行った、
一度、Bさんにはがきを出したのに。。。

という授業展開の構造なのだから、
補助発問は、やはり
一度目に、Bさんにはがきを出した場面について考えておかなければならない。

このことにより、
後の中心発問によって、
過去の「はがき」と今の「びんせん(手紙)との比較の場が生まれてくるのである。

比較がはじまってからの子どもの実際の発言はこうだった。
「適当にはがきを書いたことに、もうしわけない気持ち」
「手紙を書くという約束をやぶるわけにはいかないと思った」
「前のはがきでは不十分。もっと丁寧にかかなければ」
「Bさんの比べて自分は。。。しまった。。。と思ってはっとした」
「はがきにはただ「楽しかった」だけ。手紙を書いて気持ちをこめることが大事」
「はがきの言葉は誰にでも書けること。二人の思いでのつまったものにしたい」
などなど。
3の1のみんなのすごいのは、
ここから黒板がいっぱいになっていくことである。
大事なところで、勢いが増すところである。

このような授業の流れは、
道徳ではオーソドックスなことで、
特筆すべきことでもないかもしれない。

それを、なぜ記録したか。

今日は、これとは別に、
もうひとつの「道徳」の時間があったのだ。
大学の先生による授業だ。
一口に言えば、他者理解にかかわる内容。
「聴覚障害者の存在を身近に感じ、
 接し方に関する知識を身につける」
ことをねらいとしている。
この授業には、
子供たちが食い入るように集中していた。
発言やつぶやきの活発さは3の1の持ち味だとしても、
そんな子供たちの心を惹き付けていた何かがあった。
聴覚障害者へのファミリアリティ(親しみ)が高まり、
さらなる関心を向けていた。

しかし、授業展開は、
先のオーソドックスな事例とは異なる点が多い。
(相手を身近に感じる、具体的な手話などの活動がある、
 筆談、口話などという手話以外の手段という新しい出会いがある
 ドッチボールなど自分たちの生活を想起する、など
 他の授業でも大切にしていることと似ていることも多いが。)

となると、
道徳のオーソドックスとされてきたことは
必ずしも、そうではないということか。
あるいは、
この授業の位置づけが、そもそも「道徳」ではなく、
「学級活動」とか何か別のものということなのだろうか。

まあ、別にそんなことはあまり問題ではない。
大切なことは、どんなスタイルであれ、
楽しくて、力のつく授業であること、である。

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