わたしと小鳥とすずと

誰にだって、
あるものと初めて出会うという時がある。

「わたしと小鳥とすずと」
これは、あまりにも有名な詩だが、
この詩との「初めての出会い」というものが、
3の1のみんなには、いつか必ずやってくる。

いや、
すでにどこかで見かけていたとしても、
この詩とじっくり向き合うという時が、
3の1のみんなにはいつか必ずやってくる。

もしも、それが今日の国語の時間だったとしたら。。。
そう思うと、ちょっと肩に力が入りそうになる。

子どもたちは言った。
「とべない」
「走れない」
「きれいな音が出ない」
「たくさんなうたは知らない」
「それだけじゃない。
 その他にも「ない」はまだいっぱいある」と。

そんなに「ない」だらけなのに、
金子さんは、なぜ、「みんないい」と言ったのか?
一見、子どもたちの前に矛盾が立ちふさがる。

しかし、次の瞬間にはもう、
その矛盾を矛盾でなくそうとする解釈が
泉のようにクラスから湧き出てきた。
「みんなにだけできることがあるから。」
「一人一人できることがあるから。」
「みんなできたらつまらないから。」
「みんな同じだったらつまらないから。」
「いろいろあるから楽しいのだから。」
「いいところを見つけるのが楽しいから。」
「いいところのまねができるから。」

なるほど、
「ない」「ない」だらけなのに、
むしろ、その「ない」「ない」が
「みんないい」とするその真意が
何だかよくわかったような気がした。

だけれども、
本当に「できない」ことがいいことなのか?
「完ぺき」な方がよいではないか?
そんなゆさぶりにも、
子どもたちは自分の思いをしっかりとぶつけた。

「できないことがある方がいいよ。
 だって、チャレンジする心がなくなるよ。」
「上達の可能性がある方がおもしろい。」
「夢中になれるものがあるから幸せ。」
「はじめから何でもできる人は、
 少し進歩したことぐらいでは喜べない。」
「みんな同点は、つまらない。」
「お互いに助け合えるからいい。」

みんなちがって、みんないい。

それは、単に、
できることや、持ち味がそれぞれ違っていていい、
ということだけではなかったようだ。
むしろ、
できないことや、失敗の体験があること、
そのものが「いい」ことだったのだ。

誰にだって、
初めて出会う詩がある。
あまりにも有名で、いつも見ている詩にでさえも、
「初めての出会い」というものが、
何度でも訪れる可能性があるということを
3の1の子どもたちに教わった。
それが今日の国語の時間。

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宿題  :漢字の学習
持ち物 :リコーダー(まだの人)
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