昭和基地には、ケルンがある。
一つは、「福島ケルン」と呼ばれる。
第4次観測隊で遭難された福島紳隊員の碑である。
10月10日のことだった。
今日は、ちょうどその10日ということで、
簡略な法要を営ませていただいた。
実家がお寺というだけで
何の修行もしていない私が読経するのは
恐縮の至りであるが、
福島隊員のご冥福と、
今後の越冬のご無事を心から念じさせていただいた。
このあと、参集した隊員たちと記念写真を撮ったが、
それは、家族や親戚が集まるご法事の時の和気あいあいとした光景となんだか重なった。
近くには、南極観測隊最後の樺太犬「ホセ」のケルンがあることを知る。
そこへも立ち寄り、お線香を手向ける。
ホセは、第2次観測隊のときに昭和基地にやってきて、
第17次観測隊のときまで生きていた、”最後の犬”だという。
なお、観測隊とは別に位置づけられているが、
昭和基地の周辺には、もう一つ、「ふじケルン」という石碑があることを付け加えておく。
第15次南極観測隊の支援にあたっていた観測船「ふじ」の乗組員の石碑だそうだ。
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「俺が知ってるのは、この食堂の窓から見える景色だけだから」
そういって笑わせたのはT隊員だった。
毎日の任務に熱意を注ぎ、
自分の仕事場を必死に切り盛りしているため、
その場から離れることはほとんどない。
その姿は誰もが認めるところであり、
その実力も「すごい」の一言。
そんなT隊員がしばらく食堂の窓際で動かずにいるのを
私は遠くから見ていた。
しばらくしてから、私もその窓際に近づいてみた。
一体、何を見ていたのだろう。。。
そう思って見てみると、
そこに広がっていた景色がこれだった。
相変わらず、すべてが止まっている。
いつものように、雪上車たちが行儀よく並んでいる。
そんな景色も、よく見ると、
凍った海がスクリーンになって、
そこに昭和基地の影が長く伸びていた。
シンボル的な存在の管理棟のガラス天窓だが、
シルエットとして見たのはこれが初めてかも知れない。
また、遠くの氷山はまだ夕日に照らされていて、
心なしか虹色に輝いて見えた。
ははあん、この景色を楽しんでいたのか。。。
と思わず納得した。
私は任務の関係上、
ラングホブデやスカーレンなど比較的多くの野外に出向き、
南極が見せてくれる様々な表情に触れる機会があった方だが、
逆に、こういう基地の美しさを見落としてきたのかもしれない。
その頃、すでに仕事場にもどっていたT隊員に
「窓から見えた景色、きれいでしたね」と言ったとき、
返ってきたのが冒頭の言葉。
「俺が知ってるのは、この食堂の窓から見える景色だけだから」
感性の鋭いT隊員が越冬中に見る景色が気になって
今から目が離せなくなった。
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南極観測隊にとって
生野菜は貴重品の一つ。
日本からもってきた生野菜は
およそ半年で消費されるという。
あとは、
冷凍食品がその代役を果たす。
次に生野菜に出会えるのは、
約1年後に「しらせ」がやってくるときだ。
が、たった一つだけ、別の方法がある。
それは、昭和基地の一角に設けられた水耕栽培用の部屋。
ここで、隊員たちは、
ライトと栄養分と適温を与えながら
葉物野菜を育てている。
今日は、54次隊としては初めてとなる収穫日だった。
今回の収穫はボール一杯分の小松菜。
少しずつ、少しずつ成長する姿を、
担当の隊員は楽しみにして見てきたという。
量はわずかかもしれないが、
まさに手塩にかけた逸品なのである。
こんな状況では、
野菜嫌いの子など、絶対に生まれないと思う。“… 続きを読む...
昭和基地から約1000km離れた内陸に、
ドームふじ基地という
もう一つの日本隊の基地がある。
南極大陸のより内陸にあり、標高は3840m。
そのほとんどが厚さ何千メートルの氷だという。
気温は、夏季でもマイナス30℃前後。
ドーム基地で作業をしていると、
すぐに指先や鼻先、耳などの先端部分が冷えて痛くなるという。
凍傷の一歩手前だ。
作業中は何度も雪上車内に待避し、
暖をとってまた作業に戻る、
ということを繰り返すらしい。
そんな生活を1ヶ月以上続けてきた
いわゆるドーム隊と呼ばれるメンバーたちが
本日無事帰還した。
帰還場所は、昭和基地からヘリで数十分のところにあるS17航空拠点。
(vol.96でご紹介した場所)
帰還手段は、ドロームラン バスラーターボと呼ばれる極地に不定期で運行している航空機。
到着予定時刻が近づくと、通信担当のK隊員が基地内に放送を響かせた。
「あと10分でドロームランが到着の予定」
それを合図に多くの隊員が、
ドーム隊の帰還をこの目で確認してお祝いしようと
昭和基地の高台で待ち受け始めた。
私も、「ドーム隊のみなさん、お疲れ様でした。」
という思いでこの高台に立つ。
ちょうど、N越冬隊員が
700mmの超望遠レンズでこちらをとらえてくれていた。
17:20頃
私は、あいにく機体を肉眼で確認することはできなかったが、
このN隊員のカメラはドーム隊帰還の瞬間をおさめていたのはさすが。
ドーム隊のみなさんの安堵感や
ミッションをコンプリートさせた充実感なども
しっかりと記録した模様。“… 続きを読む...
夕食後はいつも、第一夏宿という宿舎の2階に上がり、
4人部屋のベットの隅で仕事の続きをしたり、
10畳ほどの広間で仲間たちと語ったりして過ごすことが多いが、
なぜか、こんばんは、いっさいの仕事の手をやめ、
管理棟の食堂で、
夜更かしをして過ごしたいと思った。
現在、夜の23:00。
管理棟の食堂の中は、静かな時が流れていた。
食卓テーブルを2つ隔てた向こう側に、もう一人の隊員がいるだけ。
時折、管理棟の住人隊員たちがぽつぽつと立ち寄っていく。
さっそくマイカップにコーヒーを入れ、
書棚から例の観測隊新聞のファイルを引っ張りだして読む。
とても全ページを読んでいるわけにはいかないから
斜め読みになってしまうのが残念。
ファイルをめくっていくと、いくつかのことに気づく。
一つ目は、
2日前まではで見つけられなかったJARE23の新聞が発見できたこと。
(2月4日vol.106では、(捜索中…ご存知の方、いらっしゃいますか〜。)と書いておいたが、
今日発見されたので、新たに記録しておいた。)
タイトルは、「ペンギン23」だった。
パズルの中の空白のひとつが埋まった感じがして、少々うれしかった。
二つ目は、
どこまでが手書きの新聞で、いつからがワープロの新聞になったのか、その境目がわかったこと。
JARE25までは手書きだったのが、JARE26からワープロになっていた。
JARE25は、1984年~1985年(昭和59年〜昭和60年)
JARE26は、1985年~1986年(昭和60年〜昭和61年)
だから、1985年(昭和60年)頃を境に、
ここ昭和基地における手書き離れの時代の始まりがあったということになる。
読み進めていくと、思わず目にとまる記事ばかり。
トピック22 1981年3月5日 新砕氷船の船名三つに絞られる
….昨日入った連絡によると、… 続きを読む...
当たり前のことだが、
南極昭和基地には新聞が配達されることはない。
だが、そんな昭和基地にも、
観測初期から発刊されているという新聞がある。
それも、ほぼ毎日。
初期の頃のは手書きで、ガリ版印刷だ。
紙面はすでにセピア色になっている。
食堂の本棚には、それらがファイリングされてずっしりと並んでいるのだ。
そのリストはざっと以下。
(勉強不足のため間違いがありましたらご訂正を。)
1ページ1ページに思いが込められているにもかかわらず
新聞のタイトル名だけしか掲載できないのが申し訳なく、残念。
(JARE1〜JARE12は捜索中…ご存知の方、いらっしゃいますか〜。)
JARE13 日刊13次
JARE14 (捜索中…ご存知の方、いらっしゃいますか〜。)
JARE15 週刊ボー15
JARE16 ダイリースターズ
JARE17 ザ セブンティーン
JARE18 オーロラタイムズ
JARE19 (捜索中…ご存知の方、いらっしゃいますか〜。)
JARE20 楡
JARE21 オングル甘一
JARE22 トピックス22
JARE23 ペンギン23
JARE24 オングル新報
JARE25 アデリータイムズ
JARE26 サザンクロス
JARE27 ガーネットスクエア
JARE28 こんぱによれす28
JARE29 日刊とうがも 日刊ゆきどり
JARE30 ANTARCTICA30
JARE31 オーロラ(木へんに及)光新聞31次(木へんに及=極の簡体字らしい)
JARE32 夢大陸32
JARE33 零下新聞
JARE34 サウスウインド34
JARE35 日刊ブリ
JARE36 日刊コンク36
JARE37 コナサン新聞37
JARE38 日刊サンパチ 朝刊フジ
JARE39 日刊さくら
JARE40 でいりい〜ふぉ〜てい〜
JARE41 日刊MILLENNIUM
JARE42 ナンタイ
JARE43 南緯69度
JARE44 じゃれたい JARE TIMES
JARE45 Daily News ペギラ
JARE46 Daily 4646
JARE47 日刊昭和
JARE48 よんぱちにゅーす
JARE49 NEWS49 TIMES
JARE50 50 NOW(ふぃふてぃー なう)
JARE51 魁!オングル新聞51次
JARE52 カタバ風の便り
JARE53 五三賣新聞
この他にも、観測隊一桁台の頃の手記やドーム基地やみずほ基地の記録集や写真集などもある。
だから、その全貌はまだまだ私などにはわからないことが多い。
ただ、その本棚からは
歴史の重みと、当時の隊員の方々の
明るくて情熱的な生活ぶりが実に生き生きと伝わってくるのである。
さて、われわれJARE54隊の新聞名は、「ゴシップ新聞」に決まった。
ゴシップ新聞を発刊するGo Ship社編集局長のM隊員によれば、
54次 GO SHIP!(船よ、行け) 英語のgossip(噂話、世間話)
などがそのネーミングの由来らしい。
「事実を書きつつも、冗談やあやしげな内容を含んだ楽しい記事になることが期待されている」
と、その創刊号の記事にある。
今日、ネットでいろいろな情報が入手できるようになった一方で、
手作りで情報を集めてまとめあげ、
それを独自の切り口で発信していくことが少なくなった昨今、
こんな取り組みが今も脈々と引き継がれているところは
いかにも観測隊らしい。
そんな歴史ある新聞の「ゴシップ新聞 2月4日付け No.4」に、
私も僭越ながら駄文を掲載していただく機会を得たのは
身の引き締まる思いがするとともに光栄なこと。“… 続きを読む...
今日は、昭和基地での休日日課。
と言っても、
隊員たちにはそれぞれの任務があり、
全員がそろって休暇をとるということはまずない。
私の場合も、これまでに数回あった休日日課の日は
他のオペレーションと重なっていて、
1月1日以来、2回目の休日日課となった。
そんな今日はこんな一日。
午前8:00に海氷に出る場所に集合し、
みんなで倉庫から、氷掘削用のドリルや発電機などを運び出し、
スノーモービルや雪上車に乗せて、いざ、出発。
目的の地点についたら、今度は氷にドリルで穴を開けるのだが、
ここは機械隊員たちが手際よくドリルの準備をしてくれた。
さっそくみんなで力を合わせて掘り始める。
ドリルの先を何度も継ぎ足しして、
約1時間後、なんと約4mも掘ったところで貫通した。
この作業中に、なかなかおもしろい発見がたくさんあった。
まず、表面の白い部分をスコップで掘るが、ここは約50cmの積雪の部分だったこと。
次に、その下に真っ青に透き通った氷があったこと。
さらに、その雪と氷の境目に自然と水がたまってきて、それはまるで、岩の間から出てくるわき水のようだったこと。
試しに口にふくんでみると、この水は、海水ではなく真水だったこと。。。。。
ドリルで掘削した後の少々汗ばんでいた体にこの真水はあまりにもおいしく、みんなでごくごくと飲んだこと。
考えてみると、この水は、
もともとは降雪あるいはそれらによっておし固まった氷がとけたものだろうから、
まじりっけなしの蒸留水そのものだと思われる。
そんな超がつくほどの軟水が氷結温度で湧いているのだから、
飲んでおいしく感じられるのも無理はないことだろう。
“… 続きを読む...
昭和基地内では
もう一つのビックプロジェクトが進行中である。
本次隊での完成を目指す自然エネルギー棟だ。
設営隊員たちが、連日
寸暇を惜しんでここに力を注いでいる。
この自然エネルギー棟は、完成すると
太陽の熱や風力などの自然エネルギーを活用した
次世代型の構造物となる。
真横から見ると、屋根は流線型をしていて、
いかにも未来を指向した観測隊の意志を表しているようだ。
真正面から見ると、そこは黒いガラス張りになっていて、
太陽の集熱を効率よく行えるようになっているようだ。
ただ、その完成までの道のりは決して平坦ではない。
連日の作業は、
冷たい風に長時間吹き付けられたり、
クレーンを使った高所作業になったり、
多くの隊員がはいつくばって防水作業をしたりの連続。
前次隊からずっと引き継がれてきているこのプロジェクトは、
本次隊の隊員がみんなの思いも結集させて着々と進めている。
そんな南極昭和基地の自然エネルギー棟は、
今後、全世界に地球上におけるエネルギーの有効活用について
大きなメッセージを発信していくに違いない。
“… 続きを読む...
2月1日。
この日は観測隊にとっては大きな節目の一日。
学校では卒業式がもっとも重要な儀式的行事だが、
観測隊では「越冬交代式」がもっとも意味のある儀式だと言える。
この日をもって、
前次隊53次越冬隊隊員たちが昭和基地を離れる。
厳しい季節を一致団結して乗り越え、
毎日の観測をこつこつと積み上げ
1年以上にわたってこの昭和基地を守り続けた越冬隊のみなさんは、
儀式を終え、挨拶もそこそこに
しらせへ帰還するヘリに乗り込んだ。
万感胸に迫るものがあろう。
本当にお疲れさまでした。
私たち54次隊員は、もうしばらくここで任務の完遂を目指す。
そして、約半月後、
54次越冬隊員だけが基地に残り、いよいよ越冬を開始することになる。
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