南極授業が授業であるために9
授業には「矛盾」が大切だった。
そして、これらの「石」には、
まぎれもなく子どもにとっての矛盾が存在している。
それなのに、なぜ、
「子どもの反応の手応えが。。。」
だったのだろう。
考えられることは、
「石がごつごつしている、波打ち際なのに」
などという矛盾を含む事実が
子供にとっては
まだまだ「予定調和の範囲内」だったということである。
私は、
授業で大切なことは「矛盾」の存在である、
ということについて
方法論としては知っているだけだったのかもしれない。
子どもたちにとっての「不調和」とは何かを
ぎりぎりまで想定しておくことが不十分だったのだ。
やはり、
子供を知らなければ、
どれだけよい「素材」でも「教材」にはなり得ないし、
子どもを知らなければ、
授業にはならない、ということだろう。“… 続きを読む...
南極授業が授業であるために8
授業を終えたときに
「子どもの反応の手応えが。。。」と直感的に感じたコンテンツが
実はもう一つあった。
それは、
「JARE54-昭和基地の石は語る」である。
一口に南極と言っても、
昭和基地のある地域は、
夏になると露岩がむき出しになる場所がある。
南極大陸は
最厚で約4000m、
平均でも約2000mもの厚い氷で覆われているから、
数億年前の岩がむき出しになっているというところは、
それだけで貴重な場所だとも言える。
昭和基地を歩いていると、
そんな「石」たちの姿に
「あれ?」「おや?」「なぜ?」がうまれることがよくあった。
たとえば、
蜂の巣のように無数に穴があいたような岩がある、
石は硬くて頑丈なはずなのに、である。
たとえば、
巨大な石が置き忘れられたようにぽつんと微妙なバランスで立っている、
石はどっしりとしているものなのに、である。
たとえば、
海岸線の際にはごつごつした石が散乱している、
「下流の石は粒が丸くて小さい、と習った」のに、である。
そこで、前回の観点をもう一度振り返ってみたい。“… 続きを読む...
南極授業が授業であるために7
その原因はいくつか考えられたが、
その中でも最大の原因の一つは
このコンテンツの中には「矛盾」が存在しないことだろう。
私は、
「こつこつ研究データを積み重ねることの大切さ」とか
「継続は力なり」とかというメッセージを
大上段に構えて子どもたちにストレートに発信しただけだったのだ。
普通、「よい授業」といわれる授業では、
そのねらいに達するまでの過程のどこかに、
必ず矛盾というのが潜んでいるのである。
おそらく「解説者」と「授業者」との違いがあるとすれば、
この矛盾の洞察があるかないか、だろう。
「授業者」は、
よい素材が見つかったら、
今度は、
その中に潜む矛盾を可能な限り洞察し、
子どもの心を揺り動かすように仕組み直す作業をしているのである。
そんな、
授業者としての手腕がしっかりと発揮されていれば、
「ゾンデ放球」という
これ以上ないすてきな「素材」が
「教材」になり得なかったことはないのである。
反省しきりである。
“… 続きを読む...
南極授業が授業であるために6
一方、コンテンツを作成するはしたが
最終的には「教材」となり得なかったものもある。
その一つが、例えば
「JARE54-ゾンデ放球」というコンテンツ。
私が昭和基地入りしてから、
まず最初に取材を行ったのがこれだった。
ゾンデの放球は、
地球の気象観測に欠かせない事業。
我が国の南極観測が始まって以来
ずっと継続されてきている。
大きな風船のようなものを膨らませ、
そこにラジオゾンデという
小さな観測機器を取り付けて30km上空へ飛ばし、
様々な気象データを集積しているのである。
気象隊員たちは、
昼夜通して観測小屋に在駐し
午前2時と午後2時の1日2回、放球する。
真夜中でも、どんなに風が強くても、である。
わたしは、このコンテンツの中に、
実際に隊員がゾンデを膨らませて放球するまでの過程や、
慎重かつ慣れた手つきや、
気象観測を継続してきた想いを
そこに投影したつもりだった。
もっというならば、
このような隊員たちの地道な努力と、
それを何十年も継続しながらこつこつとデータを積み重ねてきたことが、
「オゾンホールの発見」という
南極3大発見につながったのだ、
というメッセージ性をこめたつもりだった。
数日後、南極授業が実施された。
このコンテンツを含む場面は、
実際の授業ではどうだったろうか。
授業者としての直感的な感想は、
「子供の心をつかむまでには至らなかった」
である。
すぐに、その原因を自分なりに考察した。”… 続きを読む...
南極授業が授業であるために5
この手のコンテンツは、
一般的には説明的になりがちになる。
めずらしい映像ではあるけれど
子供の心に響くことに欠けることが多くなるのだ。
私がこのコンテンツを
南極授業の中で取り上げるには、
まずは、このハードルをクリヤーしなければならなかった。
まずは、砕氷航行「ラミング」を毎日のように繰り返す
しらせの姿に正対することからはじめた。
しらせの周囲には援護もない。
途中で故障するわけにもいかない。
どんな困難も乗り越えて行かなければならないのだ。
かと思うと、
しらせはあっさりと後戻りをすることもある。
夜には停船して状況を見定めるときもある。
今回はここに、
「しらせ」の生き様を見たような気がした。
すなわち、
「困難にぶち当たったときは、一度は後戻りもするけれど、
決して、あきらめたわけではない。
体制を整えてまた挑戦する」という姿だ。
しらせと正対しているうちに
しらせがなんともいとおしくなってきた。
同時に、
しらせという「素材」が「教材」になった、
とその時、思えた。
かつて、授業の先輩から、
「授業には授業者の意図や意思が込められることが大切だ」と教わったが、
それが、「素材」と「教材」の違いの一つだと思う。
もしも、私が、しらせと正対していなかったら、
このコンテンツは、単なる「素材」のままで
子供にとっての「教材」にはなり得なかったはずだと思うのである。”… 続きを読む...
南極授業が授業であるために4
南極授業に向けて、
授業の素材には事欠かない。
見るもの、聞くものすべてが
刺激的で感動的だ。
南極授業では
以下のようなコンテンツを準備した。
その主なリストは以下。
1,JARE54-出発式
2,JARE54-フリーマントルにて
3,JARE54-「しらせ」艦内生活
4,JARE54-「しらせ」停船観測
5,JARE54-「しらせ」ラミング
6,JARE54-白夜のペンギン
7,JARE54-南極の太陽
8,JARE54-ゾンデ放球
9,JARE54-PANSY計画
10,JARE54-昭和基地エコ生活
11,JARE54-昭和基地の石は語る
12,JARE54-ブリザード並みの強風
13,JARE54-基地内遠足
14,JARE54-芦くら寺五人衆
15,JARE54-元旦フライト
16,JARE54-気球気体サンプリング
17,JARE54-世界初!無人航空機気体サンプリング
18,JARE54-ラングホブデ 雪鳥沢にて
19,JARE54-スカルブスネス きざはし浜にて
20,JARE54-スカーレン スカーレン大池にて
21,JARE54-ラングホブデ 袋浦にて
22,JARE54-S17氷の大地
23,JARE54-立山と南極
24,JARE54-南極ミニ実験集
25,JARE54-南極の音楽
その他
ただ、
「素材があること」
と
「教材になること」
とは別ものである。
このことは授業者なら
誰もが実感しているところだろう。
今回の南極授業の実践を通して
それをあらためて痛感した。”… 続きを読む...
南極授業が授業であるために2
氷が支配している大陸、南極。
最大4000mにも及ぶ厚い氷が、日本の37倍もの面積を覆い尽くしています。
今、ここに世界中の科学者が注目しています。(略)
観測隊は何ヶ月も南極に滞在し、氷の大地に挑んでいます。
その氷の大地で、南極観測隊に同行しながら計り知れない南極の魅力に迫ります。
これは、授業のオープニングの一節である。
私たちは、普段の授業の中で
「授業の幕開け」を意識することが多い。
この授業の離陸を慎重にすることで、
あとは、子供の心に火がついて議論が活発化したり、
思考が深まっていったりするからだ。
反対に、この授業の幕開けにつまづくと、
議論はいっこうに焦点化されず、
本質に触れることなく、
子供たちは新たな概念形成にも至らない、
そういうことを数多く経験してきた。
このオープニング映像は、
そんな「授業の幕開け」を担う
重要なものだと個人的には位置づけている。
授業には、その教科の特質がある。
その教科らしい空気感もある。
そんな教科の味を出せる教師になりたいと
教師なら誰もが思っていることだろう。
では、教科書もない南極の
「南極授業」のもつ持ち味とは何か、
その空気感とは何か。
あの1分間の映像に、
南極初心者である私の精一杯の南極観を込めたつもり。
南極という計り知れない「素材」が、
子供にとっての「教材」となることを願って。”… 続きを読む...
南極授業が授業であるために1
今日から本校では夏休み明けの授業が再開する。
続•南極兄弟も再開だ。
さて、
南極観測隊が行っているアウトリーチ活動の中に、
南極授業と南極教室というのがある。
(もちろん、それ以外にもある)
ふつう、
南極授業というのは
南極観測隊に同行している ”学校の先生” がするもの
南極教室というのは
南極観測隊の ”観測隊員” がするもの
という説明がつけられる。
それを聞くとなんだか「ふ〜ん」とわかったような気分にはなるが、
実は、本質的に何の説明にもなっていないことにすぐに気づかされる。
では、本質的に何が似ていて、何が違っているのだろうか。
それらを検証するのがこれからのシリーズ
「南極授業が授業であるために」
“… 続きを読む...