2の2編 ケーキ屋事件

今日の2の2の生活科。
単元は街探検。

前々時は、屋上から街を眺めた。
前時は、眺めた街をもとに「街探検クイズ」を作った。
本時は、そのクイズ大会。

言うまでもないが、
クイズに正解することがねらいではない。
もっと言うと、
「大会」を作り上げることそのものもねらいではない。
もっと言うと、
「大会」を作り上げることそのものは生活科のねらいになり得る。
もっと言うと、
あえて、それはねらいではない、という決意で臨んだということである。

その具体を、
生活科らしく、
子どもの姿で記しておきたい。

クイズが始まって2問目のこと。
「この前を通ると、おかしが並んでいていいにおいがします。どこでしょう。」
「はい!」 「はい!」 「はい!」
「Rケーキ屋です」
「正解です。Rケーキ屋はここに(黒板の絵地図を指しながら)あります。」
「え?」「ちがうよ!」「合っているよ!」「ちがうよ!」
「Rケーキ屋は、ここにもあるけど、そっちにもあるんだよ。」
「え?Rケーキ屋は、本当は2つあるの!?」
「あるよ!」 「ないよ!」
「わあ、ケーキ屋事件です!!」

こうして「ケーキ屋事件」が2の2に渦巻いた。

そして、
「先生、行って確かめてこようよ」
という声が教室に響いた。

それからみんなは隊列を作って
本当の街探検へと出かけていった。
目的はひとつ。
「Rケーキ屋は本当に2つあるか」をこの目で確かめること。
街に出かけて1分後、
まず、1つめのRケーキ屋をみんなで確認。
それから、問題の絵地図のポイントまで歩くこと約5分。
そこにはRケーキ屋はなかった。
あったのは、
ケーキ屋の雰囲気が漂う美容院だった。
みんなはその結末に妙に納得していた。

本時のクイズ大会。
そのねらいは、
クイズに正解することでも、
「大会」を作り上げることそのものでもない。
自ら問いをもち、
自ら解決し、
未知を既知としていくことの喜びを味わうことができること、
それがねらいだった。
そのことを往年の先輩教師たちは
子ども主体による問題解決的な学習と呼んだ。

生活科は、
そんな先輩教師たちの後に生まれた教科ではあるが、
学びの本質は何も変わらない。

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5の1編 3粒という条件制御

再び、5年理科「種子の発芽」の学習でのこと。

本単元は、
どの種子も、
ある条件が整えさえすれば、
一気に命を躍動させることができる、
その神秘に子どもたちが触れる学習である、
とは、前回に述べた通り。

と、同時に、
「条件制御」という科学的な手続きについて学ぶのが
本単元のもう一つの側面でもある。
ただ、それは、
どちらかと言えば定型的で習得的な時間になりがちで、
確かに大事なことの一つではあるが、
創造的で科学の魅力を味わうことができる授業の中心には
なりえない。

ーーーーーーーーーーーーーーーと思っていた。

それが、
今日の5の1のみんなとの授業によって
見直さざるを得なくなってきた。

前回の授業で、子どもたちは、
固くて芽を出しそうもない種子が、
水を与えられただけで、
みるみるうちに大きくなり、
あちこちにしわが刻まれ、
まさに命を吹き返したように動き出す種子を
目の前で見て感動していた。
その時間の最後に、
「大賀はす」のことを紹介し、
その余韻に浸った。

そして、今日。
いよいよ、発芽の条件について実験していく日。
「水」「空気」「温度」(その他「栄養」「土」など)について、
調べたい条件だけを変えて、
それ以外の条件はそろえて実験をしていく、という日。

授業者は、前回の授業を思い出しながら、
「大賀博士は、3つのうちの1つの種子の発芽に成功したのでした。
 みなさんも、大賀博士のように、これから発芽をさせましょう。」
と投げかけた。

すると子どもたちは、さかんに、
「日光に当てた方がいいのでは」
「栄養もやったほうがいいよ」
「空気もいるよね」
「土はいらないのかな」
と「発芽の条件」を次々と挙げていった。

ここで、ふつう、授業者は
「では、みんなが挙げたこれらの条件を一つ一つ確かめていこう。
 確かめたい条件以外は変えずに。。。。」
というところである。

ところが、この一言を切り出したのは、
なんと5の1の子どもたちだった。

「先生、大賀博士は、3粒とも同じように育てたのかな」
「きっと3つ別々の条件にして、その中の1つが発芽したのではないかな」
「全部同じにしたら、3粒とも失敗する可能性もあるよ」
「だから、ぼくたちもそうしようよ、一つ一つ条件を変えて。」

5の1の子どもたちは
大賀博士が抱いたと思われる太古と科学へのロマンを、
確かに感じとっていたようだった。
そして、
これから取り組むことになる実験とその結果について
わくわくしていたようだった。

そんな子どもたちの姿と発言を目の当たりにしたとき、
「条件制御」という、
どちらかと言えば定型的で習得的な時間になりがちな学習でも、
極めて創造的で科学の魅力に満ちた時間に
なりえるのではないか、と思った。

もしかしたら、
子どもたちにとって本当に大切なのは、
「水」「空気」「温度」という条件などではなく、
むしろ、
「たった3粒しかない」という条件の方なのかもしれない。…
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2の2編 恒例のお花見

附属小恒例のお花見。
開花までちょっと早いが、
この陽気に誘われるようにして
1年、2年、6年が
呉羽山へと出かけていった。

2年生の出発時、
担任の先生がこうおっしゃった。
「桜は咲いているかなあ、どうかなあ」
すると子どもたちは
「咲いているよ」
「まだ咲いていないよ」
と別々の反応を返してきた。
その担任の先生はそれを受けて、
「では、それを確かめてこようね」
と投げかけた。

それから約1時間ほどのお花見から戻ってきて、
再び、
最初の問いに戻った。
「桜は咲いていたかな、どうだったかな」
すると子どもたちはこういう反応を返してきた。

「う〜ん、少しだけ、咲いていたよ」
「そう、もう少しで咲きそうだったよ」
「つぼみなら、このくらい(手で膨らみを作りながら)になっていたよ」

子どもたちの、この見事な話しっぷりに
思わず感嘆の声を挙げてしまった。

「咲いていたかどうか」という問いに対し、
YES=「咲いていた」
NO =「咲いていない」
のどちらでもない解でもって答えてきたのである。
しかも、
その解の方が、
事実を正確にとらえた「正解」なのである。
そんな新たな解を導き出した2年生の子どもたちだった。

この一連のできごとには、
実は、
授業の構成ととてもよく似ている所がある。

まず、最初の課題。
この最初の課題で
「咲いている」「咲いていない」の対立の構図を作りだすこと。
こうして、子どもの心に火をつけていく。
最初は興味の薄かった子も徐々に渦の中に入ってこれるようにする。

次に、ものとかかわる場。
課題の答えはすぐに与えず、
自分たちで確かめる場を作ること。
今の場合は「お花見に行く」ということになるが、
授業であれば「実際に試す」とか「書く」とか「調べる」といった活動がここに当たる。
この時、なぜするのか、という目的意識が大切で、
それがあいまいだと、俗に
活動あって学びなし、と言われる状態となる。

最後に、答えの導き方。
AかBかと問うて、
その答えはAでもBでもない、Cであること。
もしもAかBかと問うて、
結局、答えがAかBのどちらかだったときというのは、
それはそれでよいのかもしれないけれど、
なんとなく物足りなさが残ってしまうのである。
そうではなくて、
AでもBでもない、Cが、
子どもたちの手によって生み出されたときの授業には、
学びがいという充実感があふれている。
しかも、子どもたちにとってそのCは、
どんな正解よりもリアリティがあるのである。

「学ぶ喜びというのは、
 本来、そういうものなんだ。」

教え込みがなぜいけない?という大人の質問に対して、
子どもたちが、そう答える声が聞こえてきそうだ。

やはり私たちの務めは、
子どもたちが日々新しいものに出会っていく授業を、
(毎日は無理でも)ひとつでも多く創っていくことか。…
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5の1編 命のカプセル

5年理科「種子の発芽」の学習。

今日は、このクラスで初めての理科の授業だった。
まずは、子どもたちに、
小豆と大豆を
ほぼ同時に配る。
(ここで2種類の種子を配ることがミソ。
 1つでは見えないこと、
 つい見過ごしてしまうことも
 2つあることで見えてくるということがあるからだ。
 それを、普通「比較」という。)

すると、
「すごく固いね」
「割ってみてもいい?」
「どこから芽が出るのかな」
「どちらの種子にも白い所があるから、きっとここだよ」
「大きさが違うのは、中の栄養の量が違うのかな」
などという声が挙がる。

すかさず、
スケッチタイムをとる。
このときも、
ノートの左右に「比較」しながら書いていく。

ある程度書き上げたところで、
もう一つ、種子を取り出す。
その種子は、
これまで見たこともないくらい大きいし、
まるでプラスチックの模型のようにつるつるしているし、
固くてカチカチだし、
ここから芽が出てくるなんてとても思えない、という種子。

そこに
「この種子、本物かなあ。。。作り物かなあ。。。」
とつぶやいてみる。

「本物だよ」
「でもこんなに固いんだよ」
「本物だったら、どこか柔らかいところがあるのでは?」

「そうだ、先生、本物かどうか見分ける方法がある。
 水に入れてみて、柔らかくなれば本物。
 水に入れてみて、固いままなら作り物。」

こうして、
「種子を目覚めさせよう実験」がスタートした。

教科書には「大賀蓮」の読み物が載っているが、
まさに、どの種子も命のカプセルだ。
ある条件が整えさえすれば、
種子の中の命が一気に目覚めるのは、
本当に神秘的な現象である。
本単元は、
その神秘に子どもたちが触れる学習でもある。…
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トップを目指しているわけでない

実は、前回の生活科の授業は、
一夜明けて、
こんな展開を見せていった。

なぜ、バスと市電が一緒に並んで走っているのか?
ということが気になり始めたみんなは、
バスvs市電の主張を展開しはじめた。

子:どちらかに乗り遅れても大丈夫!
子:バスは細かく止まってくれる!
子:市電だって、渋滞がないよ!
子:バスはルートがいっぱいある!
子:バスと市電はライバルみたいだね!
などなど。。。。。

すると、そこに再び観点変更の契機となる発言が生まれた。

子:ライバル、ライバルって言うけど、
  バスも市電も別に、
  トップを目指しているわけじゃないと思う。

子:そうか、どちらもお客さんのためのはず。
子:使いやすいようにとか。
子:どちらも選べるようにとか。
子:バスも市電もいっしょにがんばっているんだよね。
子:ライバルでなくて、いい友達みたい。

「トップを目指しているわけでない」
という発言に敏感に反応し、
「それなら、トップでなく何を目指しているのか」
を考えていった2の1は、
いつもすごい子ども達だと感心させられる。

学習指導要領解説編では、この単元は、
「公共物や公共施設を利用し、
 身の回りにはみんなで使うものがあることや
 それを支えている人々がいることなどが分かり、
 それらを大切にし、
 安全に気をつけて正しく利用することができるようにする」
とある。

もし、それだけが大切なのならば、
「相手の気持ちを考えて大切に使いましょう」
「ルールやマナーの意味を考えてみましょう」
でよいのかもしれない。

だとしたら、
「トップを目指しているわけでない」
という、このすてきな一言が生まれる授業は
かなり遠回りだと言わざるを得ない。

しかし、この一言が
今も担任の頭から離れないのは、
おそらく、
この日の子どもたちが、
単なる公共物の利用者という立場を越え
そこに親しみや愛着をもつようになっていく過程を
担任が見せつけられたからではないか。

「自分自身でよりよい生活を作り出していく教科」
とは、ひょっとするとそういうことか。
またしても、子どもたちから、
基本的で本質的なことを学ばせてもらった。
ありがとう。”… 続きを読む...

ミラーの数だけハートがある

インフルエンザの影響も一段落したところで
生活科「バスにのって、市電にのって」の学習のまとめをする。

あの1日は、
歩道を歩く、バスを待つ、バスに乗る、
市役所を見学する、
市電の電停まで歩く、市電を待つ、市電に乗る、
美術館まで歩く、美術館を見学する、
学校まで歩く。。。。
と盛りだくさんの1日だった。

そんな中で、授業の入り口としたものは、
バスに乗っているとき、としてみた。
最初の発問はセオリー通り
「運転手さんはどこを見て運転したいただろうか?」
この投げかけから、
子ども達は以下のように勢いよく発言し始めた。

子:はい!はい!はい!
子:バックミラーに映った景色!
子:ワイパーでふいた窓の外!
子:バス停で待っている人!
子:雪が積もった道!
子:バスの中のお客さん!

すでにわかるのように
このバスの中のお客さんという発言は
それまでの発言とはちょっと異質である。
それまでの「バスの外や周囲」の視点が、
この発言で「バスの中」の視点へと転換しているのだ。

子ども達もその変化を見逃さなかった。
ここから、発言はさらに活性化していく。

T:え?運転手さんは、バスの中も見ているの?
子:そうだよ!みんなは安全かなあ〜って見てるはず。
子:付け足し!もう、席に着いたかな〜って見てるはず。
子:付け足し!お年寄りの人がいないかな〜って見てるはず。
子:障害のある人や病気の人も。。。
子:注意もしてくれるんだよ。

そして、ここからみんなは授業の核心にせまっていく。
つまり、運転手さんの立場で思考していたものが、
自分ごととして考えを作り上げていったのである。

T:そうか、運転手さんはなんでもよ〜く見ているんだね。
子:だからバスにはたくさんミラーがついているんだよ。
子:バスの中を見るミラー、右を見るミラー、左を見るミラー。。。
子:そうか!ミラーの数だけ気をつけることがあるんだ!
子:それに、気をつけるのは、運転手さんだけではないよ。
子:ぼくたちもみんな気をつけなければいけないんだよ。
子:そうだよ、そうだよ。だって、みんなのバスなんだもん。
子:ミラーの数だけ、ハートがいっぱい!

こうして、授業の出口が
みんなの手によって作り出された。
新たな概念を手に入れることができた
充実感のようなものが
教室の中に漂っていた。

生活科というより道徳?
という声も聞こえてきそうだが、
そもそも生活科で大切にされている思いや願いというものは、
何でもよいわけではない。
そもそも生活科の主体となっている活動というものだって、
何でもよいわけではない。
その行動の根底にある道徳的価値を見極め、
そのことに子ども自身が気付いていけることを目指しているはず。
生活科も道徳も、もっというと、総合も。
  
もちろん、この1時間くらいですぐに、
自立への基礎や生きる力として、
今後の自分に反映されていくとは思っていはいない。
どんな授業も失敗しながらでも地道に積み重ねていくしかない。”… 続きを読む...

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