BGM。
ネーミング自体が、バックグラウンド〜というくらいだから、
その存在はかなり控えめだ。
しかし、その役割は、
なかなかのものがあるようだ。
それは、
右脳が左脳に、左脳が右脳に
互いによい刺激を与えているかのよう。
登校直後の朝の時間や休み時間に、
ちょっとテンポのよい曲を
ワークスペースに流しておいた。
単調になりがちな縄跳びの自主練習の
ちょっとした味付けにでもなれば、と思った。
先日、
休み時間などの縄跳びの練習タイムに流すBGMには
何がいいか、についてみんなの意見を聞いてみた。
あっという間に、黒板がいっぱいになった。
チョークを走らせている担任は、
そのほとんどがわからなかった。
とりあえず、黒板を記録しておき、
あとでその曲を探そうか、そう思っていた。
あれから、2枚のCDが届けられた。
1枚は、みんなの人気を集めていた「○らし」の曲がいっぱい入ったCD。
もう1枚は、これまた、みんなの希望を収録したオリジナルのCD。
表紙やインデックスまで手作りだ。
どれも、3の1のみんなが
縄跳びの練習に励みながら技を高めていくための
力強い応援グッズだ。
と言っても、それは、あくまでもBGM。
バックグラウンド〜というくらいだから、
その存在はかなり控えめ。
しかし、その役割は、
なかなかのものがあるようだ。
縄を跳ぶみんなの表情にも自然と笑顔が浮かんでいる。
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世の中、とかく人の心が一つになるのは難しい。
しかし、
心が一つになるのに
たくさんな時間はいらないようだ。
その時は、体育でのなわとびの時間にやってきた。
これまでは、各自が、それぞれに
なわとびカードを手に練習を重ねてきていた。
体育で一斉に行うのは初めてだった。
前とび、あやとび、二重とび。。。
種目毎に自分の技を確認したり、
友達の技に刺激をもらったりした。
最後に、3分間とびをした。
一度もひっかからずに3分間跳び続けるのである。
惜しくもひっかかった場合はその場ですわる。
ようい(縄と整え、気持ちを集中させる)
はじめ!(一気に、トントンという音が響き始める)
10秒経過。。。
30秒経過。。。
1分経過。。。
2分経過。。。
跳び続ける仲間がどんどん少なくなっていく。
それとは逆に、
跳び続ける仲間をどんどん応援していくみんな。
がんばれ〜
ファイト〜
あと10秒!9!8!7!!6!5!4!3!2!1!。。。
やったあ!
すごい!
パチパチパチ!
3分とびを達成した本人たちよりも、
まわりのみんなの方が大騒ぎである。
とかく人の心が一つになるのは難しいものだが、
3の1のみんなは、それを
180秒でやってのける。… 続きを読む...
今日の道徳の資料のあらすじはこう。
いとこ同士のAくんとBさんは、
休み中にプールや花火見学など、
素敵な思い出を作って過ごした。
別れる時は、互いに悲しい思いになった。
後日、Aくんは、
母親同士が電話で話しているのを聞いて
「Bさんにお手紙を書く」といっていたことを思い出す。
あわてて、はがきに簡単なメッセージを書く。
すると、今度はBさんから、
思い出のいっぱいつまった長々としたお手紙が届く。
Aくんは、それを読んで、
お母さんにびんせんをもらいに行った。
授業のねらいによっても違うが、
今回、中心発問としたところはここ。
なぜ、Aくんがお母さんにびんせんをもらいに行ったのだろう?
(「なぜ。。。」という問いが子どもの実態に合わないようなら
Aくんがお母さんにびんせんをもらいに行ったとき、
何を考えていたのだろう? でもよいかも。)
Aくんのこの行為は、一見したところ、とても矛盾に満ちている。
Aくんは、お母さんにびんせんをもらいに行って、手紙を書き始めたのである、
一度、Bさんにはがきを出したのに。。。
ここを問うことで、
子どもたちは、このAくんの行為に、
明らかに、それまでとは違う道徳性が働いていることを意識していく。
一見、矛盾に見えるこの行為も
その内面を追っていくと、そこには気持ちの道筋がちゃんとある。
一人ひとりが、その整合性を見いだし、つなげていくのが
道徳の授業のひとつの意味かな、
なんて思ったりもした。
さて、この中心発問を前提に考えるならば、
そこに効果的に向かうための補助発問はどうあればよいか。
Aくんは、お母さんにびんせんをもらいに行った、
一度、Bさんにはがきを出したのに。。。
という授業展開の構造なのだから、
補助発問は、やはり
一度目に、Bさんにはがきを出した場面について考えておかなければならない。
このことにより、
後の中心発問によって、
過去の「はがき」と今の「びんせん(手紙)との比較の場が生まれてくるのである。
比較がはじまってからの子どもの実際の発言はこうだった。
「適当にはがきを書いたことに、もうしわけない気持ち」
「手紙を書くという約束をやぶるわけにはいかないと思った」
「前のはがきでは不十分。もっと丁寧にかかなければ」
「Bさんの比べて自分は。。。しまった。。。と思ってはっとした」
「はがきにはただ「楽しかった」だけ。手紙を書いて気持ちをこめることが大事」
「はがきの言葉は誰にでも書けること。二人の思いでのつまったものにしたい」
などなど。
3の1のみんなのすごいのは、
ここから黒板がいっぱいになっていくことである。
大事なところで、勢いが増すところである。
このような授業の流れは、
道徳ではオーソドックスなことで、
特筆すべきことでもないかもしれない。
それを、なぜ記録したか。
今日は、これとは別に、
もうひとつの「道徳」の時間があったのだ。
大学の先生による授業だ。
一口に言えば、他者理解にかかわる内容。
「聴覚障害者の存在を身近に感じ、
接し方に関する知識を身につける」
ことをねらいとしている。
この授業には、
子供たちが食い入るように集中していた。
発言やつぶやきの活発さは3の1の持ち味だとしても、
そんな子供たちの心を惹き付けていた何かがあった。
聴覚障害者へのファミリアリティ(親しみ)が高まり、
さらなる関心を向けていた。
しかし、授業展開は、
先のオーソドックスな事例とは異なる点が多い。
(相手を身近に感じる、具体的な手話などの活動がある、
筆談、口話などという手話以外の手段という新しい出会いがある
ドッチボールなど自分たちの生活を想起する、など
他の授業でも大切にしていることと似ていることも多いが。)
となると、
道徳のオーソドックスとされてきたことは
必ずしも、そうではないということか。
あるいは、
この授業の位置づけが、そもそも「道徳」ではなく、
「学級活動」とか何か別のものということなのだろうか。
まあ、別にそんなことはあまり問題ではない。
大切なことは、どんなスタイルであれ、
楽しくて、力のつく授業であること、である。… 続きを読む...
たくさんストックがあったはずのシール。
それが、今日は、
みるみるうちに減っていった。
そのシールの行き先は、
みんなに配布した「なわとび進級カード」だった。
例えば、
前とび 20回、40回、60回、80回、100回の各節目を達成する毎にシール1枚。
後とび 20回、40回、60回、80回、100回の各節目を達成する毎にシール1枚。
駆け足 20回、40回、60回、80回、100回の各節目を達成する毎にシール1枚。
あやとび 5回、10回、20回、30回、40回、50回の各節目を達成する毎にシール1枚。
交差とび 5回、10回、20回、30回、40回、50回の各節目を達成する毎にシール1枚。
二重とび 2回、 5回、10回、20回、30回の各節目を達成する毎にシール1枚。
あや二重 2回、 5回、10回、20回の各節目を達成する毎にシール1枚。
交差二重 2回、 5回、10回各節目を達成する毎にシール1枚。
三重とび 2回達成でシール1枚。
カードを配るや、
一気にみんなのやる気に火がついた。
20回できたよ!
80回できたよ!
あやとびもできたよ!
今度はどれに挑戦しようかなあ!
たった2回だよ!でも、二重とび、今日初めて跳べた!
ぼくのシール、合計30個を越えたよ!
休み時間、カードを手にしたみんなが、
数珠繋ぎになってシールをもらいに並ぶ。
シールを貼る担任の手は止まることはないが、
不思議と疲れない。
3年生というこの時期は、
黄金のように純粋に輝く本当に大切な時。
理屈ぬきで、
取り組んだ分だけ、
あらゆるものが身に付いていく素敵な時期。
その源となっているエネルギーは、
一人一人の子どもの心の中に詰まっている
家族や周囲の方々のいっぱいの愛情。
それが
泉のように湧いてくる。
寒くなって、
外に出る機会もぐんと減ってしまう富山の冬。
そんな冬だからこそ、
とりわけ、小3の冬だからこそ、
なわとびカードにシールが飛んでいく冬にしたい。
明日は、シールを買いに行こう。… 続きを読む...